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2014年9月26日号 vol.279

写真:「周布政之助肖像画」(山口県立山口博物館蔵)(左)。「杉徳輔(すぎ のりすけ)宛周布政之助遺書」(山口県文書館蔵)。徳輔(孫七郎(まごしちろう))は政之助のおい。本文を書いた後、行間や紙の上下にもぎっしりと書いている(右)
第2回 相次ぐ苦難の中で
萩藩の要職にあり、萩藩のかじを懸命に取り続けた政之助を紹介します。
幕末、欧米による日本の植民地化を防ぐため、挙国一致で攘夷(じょうい)を行い、その後、列強からの圧力ではなく、自国による開国を行って海外の文化・技術を積極的に取り入れるべき、と考えていた周布政之助(すふ まさのすけ)。有能で、志士らから慕われた一方、酒癖の悪さで親しい人々をやきもきさせた人物でした。
政之助は江戸にいた文久2(1862)年、酔って土佐藩の前藩主(※1)への舌禍事件を起こし、3度目の謹慎処分となります。責任を取り、名も麻田公輔(あさだ こうすけ)と変えますが、江戸に残り、破約攘夷(※2)の周旋活動を続行。長州へ帰って謹慎したのは文久3(1863)年、幕府が尊王攘夷(※3)派に押し切られ、やむなく5月10日を期して攘夷を行うことを朝廷に伝えてからのことでした。
その5月10日、血気にはやる萩藩の若い志士らが関門海峡で攘夷戦を決行します。初めこそ勝ったものの、6月には外国の軍艦からの反撃が激化。政之助は藩政に復帰し、防備を強化します。ところが、攘夷を決行した萩藩を中心とする尊王攘夷派に対し、公武合体(※4)派の公卿(くぎょう)らと連携した鹿児島藩などが、京都で「8月18日の政変」を起こして反撃。萩藩と7人の公卿が京都から追放される事態に陥ります。
萩藩では、京都へ進発して朝廷に名誉回復を訴えようという声が高まります。その主唱者・来島又兵衛(きじま またべえ)(※5)らに、政之助は今、軽挙なことをすべきではないと反対。元治元(1864)年1月、高杉晋作(たかすぎ しんさく)(※6)も又兵衛の説得を試みますが、又兵衛から罵倒され、進発の是非を久坂玄瑞(※7)らに相談するため藩に無断で大坂へ。萩に戻った3月、脱藩の罪で野山獄に投じられます。
敵兵が来たら、我が霊が叱りつけて退けよう
政之助が事件を再び起こしたのは、その2カ月後のことでした。政之助が酒に酔い、晋作がいる野山獄を馬に乗って訪ね、抜刀して番人を脅す騒ぎを引き起こしたのです。当時を知る人物の談話によれば、政之助は晋作を呼び出し、声高に何かを談じ、それを番人が藩に伝えて大問題になったのだといいます。このころ藩内では京都進発論が一層高まっており、孤立した政之助は、酔って、獄中の晋作と語らいたくなったのでしょう。ある記録によれば晋作はこのとき、政之助から「これしきに堪(こた)えられぬようでは防長(ぼうちょう)(※8)の政治はできんぞ」と激励されたことを後日、涙を流して語ったといいます(※9)。
要職の座にありながら、この騒ぎを起こした政之助に50日間の逼塞(ひっそく)(※10)の刑が下った翌日、又兵衛らは京都へ。そして7月19日、京都御所などで「禁門の変(※11)」を起こし、敗北。玄瑞や又兵衛は、自刃します。
萩藩の苦難は続きます。外国4カ国の艦隊が前年の攘夷戦の報復として下関に来襲し、萩藩は大敗。さらに、禁門の変の罪を問う形で幕府が諸藩に長州征討を命令。政之助は長州征討を回避すべく、岩国の吉川(きっかわ)氏(※12)を訪ね、自らの命も差し出す覚悟を告げて幕府への周旋を懇願します(※13)。このころの政之助の考えは、長州は幕府に恭順を示し、長州内では征討に備えて軍備充実を、という武備恭順でした。
しかし、藩内では、幕府に完全な恭順を主張する保守派が台頭。武備恭順派と激しく対立します。政之助は行き詰まり、藩主父子に請われても出仕せず、山口の仮住まいに引きこもり、友人に自刃を口にするようになります(※14)。家族らは懸命に守ろうとしますが、政之助は夜、ひそかに近くの畑に出て自刃。死の間際、こう言い残します。「私の屍(しかばね)を孔道(※15)のそばに埋めよ。敵兵が来たら我が霊が叱りつけて退けよう」(※16)。その遺命通り、墓は自刃の地に近い石州街道のそばに建てられました。
やがて時がたち、墓のすぐ近くに顕彰碑が建てられ、その一帯は「周布町」と名付けられました。そして平成26(2014)年、命日の9月26日、その周布町で、没後150年慰霊祭が営まれることになりました。長州のため、日本のため、懸命に奔走した周布政之助。その名は今も山口の地で、生き続けています。

「木戸孝允(きど たかよし)戯画」(山口県立山口博物館蔵)。親しかった孝允(桂小五郎(かつら こごろう))が政之助の飲酒をいさめようと描いたもの。「酔えば、目がグルグル回って、教養に欠けた人物の眼(め)になる。酒をやめ、澄んだ君子の眼になってほしい」といった意味が込められている
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山口市の亀山公園にある政之助の顕彰碑。明治29(1896)年建立。碑文は井上馨(いのうえ かおる)、題字は政之助に厚い信頼を寄せた萩藩主の世子(せいし)・毛利元徳(もとのり)
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- ※1 山内容堂(やまうち ようどう)。公武合体を周旋したが、「酔えば勤王、覚めれば佐幕(幕府を補佐すること)」ともいわれた。
- ※2 幕府が外国と締結した条約を破棄し、外国に対して攘夷を行うこと。
- ※3 天皇を尊崇する思想と、他国を排撃する思想。
- ※4 外圧に対応するため、朝廷と幕府が結び付き、体制の安定を図ること。
- ※5 萩藩士。吉田松陰(よしだ しょういん)から信頼され、松陰主宰の松下村塾(しょうかそんじゅく)の門下生とも親しかった。
- ※6 久坂玄瑞(くさか げんずい)と共に、松下村塾の双璧といわれた。
- ※7 松陰の妹・文(ふみ)と結婚し、松陰とは義兄弟に当たる。
- ※8 周防国(すおうのくに)・長門国(ながとのくに)。現在の山口県。
- ※9 吉富簡一(よしとみ かんいち)談話速記による。吉富簡一は政之助が山口の仮住まいとしていた家の主で庄屋、志士。
- ※10 罪科として、自宅の門を閉じさせ、昼間の出入を禁じ、謹慎・反省させるもの。
- ※11 8月18日の政変で、京都での地位を失った萩藩が、再起を図り、鹿児島藩の兵らと京都御所で戦った事件。
- ※12 毛利(もうり)氏一族。このときの当主は経幹(つねまさ)。
- ※13 このころすでに、萩藩の家老3人の首をもって幕府への謝罪の証しとする話があった。経幹は周旋役を当初断ったが、政之助の決死の覚悟に心を動かされて承諾。萩藩存続のため幕府軍総督との交渉に赴き、撤兵につなげた。
- ※14 友人だった秋良敦之助(あきら あつのすけ)の談によると、政之助は「そうすれば奮起して後を継ぐ者があるだろう」と言ったという。
- ※15 大きな通り。
- ※16 『周布政之助伝』下による。
- 【参考文献】
- 末松 謙澄『防長回天史』5第4編-上1991
- 周布公平監修『周布政之助伝』上・下1977
- 山口県教育委員会編『周布家寄贈周布政之助資料図録』1979など
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