ここから本文
2014年9月12日号 vol.278

写真:「周布政之助写真」(山口県文書館蔵)(左)。「周布政之助待罪書写」文久元(1861)年10月9日付(山口県文書館蔵)。政之助が藩主の建白を阻止しようとした責任を取るため藩に提出した辞表の写しの一部(右)
第1回 松陰・晋作・玄瑞と政之助
何度も謹慎・復帰を繰り返しながら、幕末、激動期の萩藩をリードした熱血の士を紹介します。
何度も謹慎処分になりながら、萩藩の政治に不可欠な存在として要職の座へ復帰し、藩と若い志士らをつないで奔走した周布政之助(すふ まさのすけ)。萩藩の改革者・村田清風(むらた せいふう)(※1)を親戚に持ち、友には、「海防僧」月性(げっしょう)(※2)ら、時事問題に強い関心を持つ人たちが数多くいました。
黒船が来航した嘉永6(1853)年、萩藩の政治の中枢に関わるようになると軍事・財政の改革に着手。しかし、強硬な改革は反感を招き、安政2(1855)年、謹慎を命じられます。
2年後、藩政の中枢に復帰すると、再び改革に挑むとともに、西洋の文化・技術を取り入れるため若い藩士を長崎に派遣するなど人材を育成・活用していきます(※3)。ときには政之助を中心とする若者らが、吉田松陰(よしだ しょういん)(※4)の門下生らと、考え方の相違から激しく対立。それを和解させたのは双方から信頼されていた月性でした。
「安政の大獄」が始まると、政之助は、考え方が過激になっていた松陰を幕府から守るため、あえて萩の野山獄に投じます。投獄された松陰は政之助を罵倒しますが、真意を知ると、門下生の高杉晋作(たかすぎ しんさく)(※5)への手紙で次のように悔いています。「周布(政之助)が私を分かってくれていること、周布が優れた人物であることは知っている」「私は聞き分けの良い男だから、周布が最初に実情を明かしてくれれば、あのようなことは言わなかった。月性が(生きて)いれば調停の術もあったのに…(※6)」。政之助は、松陰の門下生らも幕府から守ろうと配慮します。
しかし、松陰は安政6(1859)年、江戸へ送られ、幕府によって刑死に(※7)。それを知った晋作は「仇(かたき)を討たなければ、心安らかになりません」と、思いを明かす手紙を送るほど、政之助を厚く信頼するようになっていました。
後輩思いの政之助が起こした舌禍事件
萩藩は文久元(1861)年、航海遠略策(※8)を朝廷に建白し、公武合体(※9)を周旋しようとします。しかし、植民地化を防ぐため、まず攘夷(じょうい)をし、その後、外国からの圧力ではなく、自国による開国をすべきと考えた政之助は、久坂玄瑞(※10)と建白の阻止を図り、2度目の謹慎処分に。
翌年になると、朝廷では攘夷論が強まり、それに応じて萩藩は航海遠略策をやめ、朝廷に沿う方針とします。政之助は藩政に復帰し、幕府が攘夷実行を朝廷に約束するよう、周旋活動に奔走。ところが、そうした中で二つの舌禍事件を起こしてしまいます。
その一つは萩藩主の世子(せいし)・毛利元徳(もうり もとのり)(※11)が土佐藩(現在の高知県)の前藩主・山内容堂(やまうち ようどう)(※12)を江戸藩邸に招いたときのことです。うたげには政之助や玄瑞も同席しており、玄瑞は容堂に求められて詩を吟じます。それはかつて月性が政之助の祖父にささげた、国を憂う詩。するとその最中、泥酔した政之助が容堂を指さし、非難ともとれる言葉を言い放ち、立ち去った、というのです(※13)。容堂は顔色を変え、供の土佐藩士は激怒。しかし大事には至りませんでした。
二つ目の舌禍事件は、その9日後に起きます。幕府の攘夷決定が進まない状況にあって、晋作・玄瑞らがイギリス公使を斬ろうと計画。それを容堂が察知し、幕府への周旋の妨げになる、と毛利元徳に知らせます。驚いた元徳は晋作らを探し出し、心情を酌みながら説得。晋作らは計画を中止し、元徳から賜った酒を飲んでいると、政之助や土佐藩士4人が加わって、酩酊(めいてい)した政之助がこう放言した、といいます。「容堂侯は江戸城へ登られても、天皇の勅命である攘夷を幕府に促す誠意を未だ見せていない」(※14)。土佐藩士は激怒し、刀に手をかけますが、晋作らが間に入り、政之助は難を逃れます。政之助は翌日、「容堂侯をひぼうする心はなく、晋作らを鎮めるためだった」と元徳にわび、元徳が容堂のもとへ赴いて謝り、ことなきを得ます(※15)。
有能な行動派で、若者らに慕われた政之助。舌禍事件は、若者らを守りたいという政之助の熱い思いが故の暴走だったようです。

「高杉晋作書翰(しょかん)」(安政6(1859)年)11月16日付の一部(山口県文書館蔵)。師・松陰の刑死を知った晋作が「仇を討ちたい」と政之助に明かしている
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。
- ※1 藩財政を改善したほか、洋式砲術の導入などの対外防備も強化した。
- ※2 遠崎村(現在の柳井市)の妙円寺の僧。開設した私塾「清狂草堂(せいきょうそうどう)」(時習館)には、後に志士となる若者らが藩内外から集った。萩藩初の討幕論を唱えた人物。
- ※3 文久3(1863)年の攘夷実行のころ、5人の若者をイギリスへ留学させてもいる(長州五傑)。
- ※4 萩藩士。多くの志士を輩出した松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰。
- ※5 久坂玄瑞(くさか げんずい)と並び、松下村塾の双璧といわれた。
- ※6 月性は安政5(1858)年2月ごろ政之助と松陰の間を調停、5月に病死。松陰は12月に野山獄に投じられた。
- ※7 松陰の遺体は門下生が獄に受け取りに行き、政之助らの配慮により藩の公金で仮埋葬された。
- ※8 朝廷も幕府も日米の条約締結以来のわだかまりを捨て、世界との通商・航海を通じて国力を高め、その上で諸国に対抗しようとする策。
- ※9 外圧に対応するため、朝廷と幕府が結び付き、体制の安定を図ること。
- ※10 松陰の妹・文(ふみ)と結婚し、松陰とは義兄弟に当たる。
- ※11 徳山藩主の家に生まれ、萩藩主・毛利敬親(たかちか)の養子となった。
- ※12 公武合体を周旋したが、「酔えば勤王、覚めれば佐幕(幕府を補佐すること)」ともいわれた。
- ※13 その詩には、廟堂(びょうどう。政治をつかさどる所)で老公が決断せずにいるという一節があり、それになぞらえて、政之助は容堂へ「容堂侯も廟堂の一老公なり」と放言したという。
- ※14 「容堂侯は尊王攘夷をちゃらかしになさる」と言ったなど、このときの政之助の言葉には諸説ある。
- ※15 『周布政之助伝』下の「世子奉勅東下日記」によれば、容堂は萩藩に、政之助への厳しい処罰は不要と答えている。
- 【参考文献】
- 末松 謙澄『防長回天史』3第3編-上1991
- 周布公平監修『周布政之助伝』上・下1977
- 山口県教育委員会編『周布家寄贈周布政之助資料図録』1979
- 吉田松陰『吉田松陰全集』第10巻 1974など
- 【おすすめリンク】
-
- 「やまぐち幕末ISHIN祭」特設サイト((一社)山口県観光連盟ホームページ)
- 特集「幕末維新の旅」(見て!来て!知って!!魅力発県やまぐち)
- おもしろ山口学バックナンバー
-
- 「久坂玄瑞と吉田松陰の縁を結んだ、破天荒な『海防僧』月性」
- 第1回 男児志を立てて郷関を出づ(2014年7月25日号vol. 276)
- 第2回 庶民から武士まで海防・討幕へ(2014年8月8日号vol. 277)
- 下記リンク先本文中のイベント等は掲載時のもので終了していますので、ご注意ください。
- 「杉孫七郎-長州ファイブより先に世界を見た男」(2013年9月13日号vol. 257)
- 「久坂玄瑞と吉田松陰の縁を結んだ、破天荒な『海防僧』月性」

Copyright© Yamaguchi Prefecture All rights reserved.