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2014年8月8日号 vol.277
おもしろ山口学/久坂玄瑞と吉田松陰の縁を結んだ、破天荒な「海防僧」月性/写真:明治2(1869)年刊行の松下村塾蔵版『清狂詩鈔』(左の写真中の右)と、明治25(1892)年、月性の弟子たちの編集で刊行された『清狂遺稿』(左の写真中の左)(山口県立山口図書館蔵)。月性が使用した網代笠(あじろがさ)((公財)僧月性顕彰会蔵)。師友らが寄せ書きをしている(右)

写真:明治2(1869)年刊行の松下村塾蔵版『清狂詩鈔』(左の写真中の右)と、明治25(1892)年、月性の弟子たちの編集で刊行された『清狂遺稿』(左の写真中の左)(山口県立山口図書館蔵)。月性が使用した網代笠(あじろがさ)((公財)僧月性顕彰会蔵)。師友らが寄せ書きをしている(右)

第2回 庶民から武士まで海防・討幕へ
幕末、多くの人々に大きな影響を与えた長州の僧・月性を紹介します。

「月性展示館」
月性(げっしょう)の貴重な原稿や遺品、月性宛ての書状などを展示しています。
期間:常時。※月曜日と年末年始は休館。
場所:妙円寺境内(柳井市)
「吉田松陰・久坂玄瑞・僧月性」幕末パネル展
吉田松陰(よしだ しょういん)遺墨帖(いぼくちょう)・久坂玄瑞(くさか げんずい)遺墨の中からパネルで数点を展示。
期間:開催中(終期は未定)
場所:月性展示館、ふれあいタウン大畠(大畠公民館)(柳井市)

萩藩初の討幕論を唱え(※1)、優れた詩人でもあった僧・月性(げっしょう)(※2)。そして吉田松陰(よしだ しょういん)(※3)。2人の初対面は、松陰が実家の幽囚室で蟄居(ちっきょ)を始めて間もないころだったようです(※4)。それは松陰が他人との文通すら断っていた時期のこと。松陰は月性の訪れを「乱入」と表現しています。豪快な性格の月性は、親しかった松陰の兄を介して、それ以前から松陰と手紙をやりとりしており、早く会って話をしてみたい気持ちを抑えきれず、乱入したのでしょう。

月性は久坂玄瑞(くさか げんずい)(※5)の亡き兄とも親しく、家族を失って一人になった玄瑞に学問などを教え、松陰に学ぶことを薦めていました。その玄瑞は、松陰との再三の手紙のやりとりを経て、ようやく松陰に学ぶようになります(※6)

月性と松陰は親しさを増していき、その象徴ともいえるのが、月性が松陰に贈った400字詰め原稿用紙の版木です。松陰と塾生らは、以後、その版木で刷った原稿用紙に、自分たちの主張などを著していきます。また、国を憂う思いに満ちた月性の詩は松下村塾で愛吟され、毎月の詩会の後、松陰から求められて玄瑞が吟じたのは、たいてい月性の詩だったといいます。

安政4(1857)年12月、玄瑞は松陰の勧めで松陰の妹・文(ふみ)(※7)と結婚します。結婚を祝う月性から松陰への手紙は、実は文にもう一つの縁談があったことを教えてくれます。「(あなたは)御令妹を以前、桂小五郎(かつら こごろう)(※8)に勧められたことがありました。小五郎は壮士ですが、読書の力と憤夷(ふんい)(※9)の志ははるかに玄瑞の方が勝るでしょう。誠によい婿です」。玄瑞びいきの月性の思いが伝わってきます。

松陰や玄瑞を突き動かした月性の言葉

列強の脅威が迫る中、月性は早急な海防の実行を説いて回り、「海防僧」とも呼ばれた人でした。月性の講演は、その詩と同じく、人々を鼓舞する魅力があり、庶民から武士に至るまで引き付け、萩での講演には松陰も塾生らを聴きに行かせています。その内容は、武士だけでなく農工商の人々も、男女も共に、一致団結して海防に参加すべき、という当時では画期的なもの。高杉晋作も月性の講演に大いに注目しており、後の「奇兵隊(※10)」創設に影響を与えたのかもしれません。そうした講演で藩内各地を飛び回っていた月性でしたが、そのさなかの安政5(1858)年5月、突然の病で亡くなります。

月性の死を惜しんだ松陰は、月性の詩稿を世に出そうとします。しかし、幕府による安政の大獄が始まり、松陰は安政6(1859)年5月江戸へ送られ、残された玄瑞らが詩稿の出版準備を進めます。

10月、江戸の獄中で刑死を覚悟した松陰は、次のようなことを書いています。「我が藩に士は多いが、最も才知が優れ、称賛すべき人は僧清狂(月性)である。しかし、清狂は死んでしまった。(中略)私のような愚か者は命を惜しむ価値がない」(※11)。さらに松陰は塾生らに長い遺書(※12)を残し、その中で「清狂の護国論(※13)及び吟稿(中略)を、天下同志の士に示してほしい」と願いを託し、2日後、帰らぬ人となります。そして玄瑞も元治元(1864)年7月、禁門の変(※14)で自刃し、この世を去ります。

しかし、彼らの遺志は引き継がれます。長州では、身分に関係なく、志ある人々が討幕へと立ち上がり、時代を変えます。激動の幕末の中で出版が中断された月性の詩稿も、松下村塾蔵版『清狂詩鈔(ししょう)』として明治2(1869)年に初めて世に出ます(※15)。松陰や玄瑞を突き動かした月性の言葉。それは時代をも動かすエネルギーを秘めていたのかもしれません。

大正12(1923)年、月性顕彰のため制作された無声映画のポスター((公財)僧月性顕彰会蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

大正12(1923)年、月性顕彰のため制作された無声映画のポスター((公財)僧月性顕彰会蔵)
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玄瑞の日記(山口県文書館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

玄瑞の日記(山口県文書館蔵)。月性の死、松陰の東送(江戸送り)、親しい先輩も失った安政6(1859)年8月、「あゝ我何の不幸なる者ぞ(中略)今や上人(月性)逝き、先生は東し…」と辛い思いを記している。日記は、論稿などの紙の裏を再利用したもの。右は日記の表紙
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絹本着色吉田松陰像(自賛)[吉田家本](山口県文書館蔵)の一部の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

絹本着色吉田松陰像(自賛)[吉田家本](山口県文書館蔵)の一部。松陰の江戸送りの直前、塾生がほぼ同様のものを複数描いた。同じ塾生による月性肖像もかつてあり、玄瑞は松陰肖像[久坂家本]と対幅にするつもりだった
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  • ※1 月性が安政元(1854)年に作成し、翌年、萩藩に提出した建白書で「幕府が攘夷(じょうい)を成し得ない場合、萩藩が先頭に立って王政復古の世に戻すべき」と唱えた。本文※1へ戻る
  • ※2 遠崎村(現在の柳井市)の妙円寺の僧。私塾「清狂草堂(せいきょうそうどう)」(時習館)を開設。後に志士となる若者らが藩内外から集った。本文※2へ戻る
  • ※3 萩藩士。多くの志士を輩出した松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰。本文※3へ戻る
  • ※4 黒船への乗り込みを企てた罪で萩の野山獄に投じられ、野山獄を安政3(1856)年12月に出た後、実家・杉(すぎ)家で蟄居した。本文※4へ戻る
  • ※5 高杉晋作(たかすぎ しんさく)と共に松下村塾の双璧といわれた。本文※5へ戻る
  • ※6 松陰は玄瑞の心意気を試すため、すぐには入門を許さなかった。本文※6へ戻る
  • ※7 松陰の4番目の妹。楫取素彦(かとり もとひこ)の妻となっていた姉・寿子(ひさこ)が亡くなって2年後の明治16(1883)年、素彦と再婚。平成27(2015)年の大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公。本文※7へ戻る
  • ※8 萩藩士。維新政府でも活躍。後の木戸孝允(きど たかよし)。本文※8へ戻る
  • ※9 欧米列強への憤り。本文※9へ戻る
  • ※10 文久3(1863)年、高杉晋作らが創設した軍隊。武士、農民、町人の有志も参加。本文※10へ戻る
  • ※11 安政6(1859)年10月20日ごろに松陰が書いた「諸友に語(つ)ぐる書」。本文※11へ戻る
  • ※12 「留魂録」。本文※12へ戻る
  • ※13 仏教によって国を守る意識を喚起しようとしたもの。本文※13へ戻る
  • ※14 前年の8月18日の政変で、京都での地位を失った萩藩が、再起を図り、鹿児島藩の兵らと京都御所で戦って敗れた事件。本文※14へ戻る
  • ※15 明治25(1892)年には、月性の門下生らにより、「男児志を立てて郷関を出(い)づ」の詩も収めた月性の詩集『清狂遺稿』が出版された。本文※15へ戻る
【参考文献】
海原徹『月性 人間到る処青山有り(ミネルヴァ日本評伝選)』2005
海原徹『吉田松陰と松下村塾』1999
松陰神社編『松陰神社所蔵宝物図録』2009
福本義亮『久坂玄瑞全集』1992
山口県文書館編『山口県文書館蔵 吉田松陰関係資料目録』2006など
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