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2014年7月25日号 vol.276
おもしろ山口学/久坂玄瑞と吉田松陰の縁を結んだ、破天荒な「海防僧」月性/写真:幕末当時からある妙円寺の山門(左)。明治23(1890)年、月性の三十三回忌に門弟らによって再建された「清狂草堂(時習館)」(右)

写真:幕末当時からある妙円寺の山門(左)。
明治23(1890)年、月性の三十三回忌に門弟らによって再建された「清狂草堂(時習館)」(右)

第1回 男児志を立てて郷関を出づ
玄瑞の兄や松陰の兄との友情が幕末史を動かすことになった長州の僧・月性を紹介します。

「月性展示館」
月性(げっしょう)の貴重な原稿や遺品、月性宛ての書状などを展示しています。
期間:常時。※月曜日と年末年始は休館。
場所:妙円寺境内(柳井市)
「吉田松陰・久坂玄瑞・僧月性」幕末パネル展
『吉田松陰(よしだ しょういん)遺墨帖(いぼくちょう)』『久坂玄瑞(くさか げんずい)遺墨』の中からパネルで数点を展示。
期間:開催中(終期は未定)
場所:月性展示館、ふれあいタウン大畠(大畠公民館)(柳井市)

吉田松陰(よしだ しょういん)(※1)と、その門下生・久坂玄瑞(くさか げんずい)(※2)。共に幕末史に欠かせない萩生まれの人物ですが、その2人を引き合わせた人物のことは、あまり知られていません。その人は、早急な海防の必要性を説いて回ったことから「海防僧」と呼ばれ、優れた詩人でもあった月性(げっしょう)(※3)。その名は知らなくとも「男児志を立てて郷関(きょうかん)を出(い)づ。(中略)人間(じんかん)到(いた)る処(ところ)青山(せいざん)有り(※4)」という詩の一節を知る人は少なくないでしょう。

その詩の作者・月性は文化14(1817)年、遠崎村(現在の柳井市)の妙円寺で生まれました。15歳のとき、九州の私塾(※5)に入り、詩文などを学びます。九州で学んでいたころ、訪れた長崎で欧米列強に脅威を感じ、海防を強く意識するようになります。

23歳で帰郷。しかし、4年後再び遊学を決意。その旅立ちのときに作ったのが「男児志を…」の詩でした。大坂へ出た月性は師友を求め、さらに各地へ。月性は風変わりな僧で衣は破れ放題、頭はそらず、髪はぼうぼうで、その姿は親しくなった人々から「ハリネズミ」とも形容されています。詩作を始めると昼も夜もなく没頭し、ふと空腹に気付けば大いに食べ、飲む。酔うと大声で詩吟を始め、剣を取って乱舞する。そんな豪快な性格や、破天荒な発想、大胆な行動、豊かな詩才は高名な僧や学者ら(※6)にも愛され、多彩な交友関係を築きます。

大坂から帰郷すると、嘉永元(1848)年、妙円寺境内に私塾「清狂草堂(せいきょうそうどう)(※7)」を開設。後に志士となる若者らが藩内外から集うようになりました(※8)

久坂玄瑞。もう一人の兄・月性に導かれた師・松陰との出会い

月性は叔父2人が住職をしていた(※9)萩に、時事問題に強い関心を持つ友が数多くいました。その中に玄瑞の兄・玄機(げんき)(※10)や、松陰の兄・杉梅太郎(すぎ うめたろう)(※11)がおり、彼らの家に泊まることもありました。黒船が来航した嘉永6(1853)年の夏、月性は非常に親しかった玄機らと萩で飲み、激論を交わしています。

そうした中、安政元(1854)年1月、黒船が再び来航。玄機は藩の命令で海防策についての筆を執ります。そのとき玄機は病を患っており、完成から間もない2月、35歳の若さで亡くなります。数日後には、玄機・玄瑞の父も死去。前年には母も亡くなっており、15歳の玄瑞が一人残されます。

玄機の死を知った月性は弔詩を作り、久坂家を訪ねて泣いたといいます。また、幼いころから知る玄瑞を心配し、学問や社会情勢を教えるようになります。月性も玄機と同時期、藩への建白書の作成に取り組んでおり、月性と玄機は似たところがあったのかもしれません。玄瑞自身も後年、「月性を見ると亡き兄を見るようだった」としのんでいます。

その年、松陰は黒船への乗り込みを企てて失敗し、萩へ送還され、野山獄に入っていました。安政2(1855)年、松陰の元へ、兄の梅太郎を通じてか、月性の建白書の原稿が届けられます。松陰は月性と面識はありませんでしたが、その名は兄を通して以前から知っていました。月性の建白書には「幕府が攘夷(じょうい)を成し得ない場合、萩藩が先頭に立って王政復古の世に戻すべき」という萩藩初の討幕論が記されており、それを読んだ松陰は異を唱える手紙を月性に送ります(※12)。それに対し、月性は半紙1束と薬10品を松陰へ。松陰は月性の心遣いに感激し「著述の用に供す。疾病の用に供す」と礼状を送り、これを機に2人は厚い信頼で結ばれていきます。

月性は玄瑞に、その松陰に学ぶことを薦めます。しかし松陰は当時とらわれの身。玄瑞は安政3(1856)年、九州へ旅立ちます。訪ねた先は、月性がかつて学んだ師や、松陰の親友・宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)(※13)らでした。宮部とは時事問題について話し合っており、松陰の話も出たことでしょう。玄瑞は、もう一人の兄ともいえる月性が薦めたとおり、自分の師は松陰だと確信し、萩へ帰ったのでした。

左:安政2(1855)年に描かれた月性剣舞の図((公財)僧月性顕彰会蔵)の写真。右:小・中学生による月性剣舞の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

左:安政2(1855)年に描かれた月性剣舞の図((公財)僧月性顕彰会蔵)。玄瑞は著「俟采擇録(しさいたくろく)」に、月性は酒に酔うと兄・玄機の剣を抜いて舞ったことを書いている。右:月性の故郷・大畠(おおばたけ)地区では、月性剣舞が小・中学生によって受け継がれている
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吉田松陰「僧月性の詩を読む」((公財)僧月性顕彰会蔵)の一部の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

吉田松陰「僧月性の詩を読む」((公財)僧月性顕彰会蔵)の一部。安政2(1855)年2月、月性の詩を読んだ松陰が4首の詩を書いたもの
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月性が書いた建白書の原稿((公財)僧月性顕彰会蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

萩藩が藩政改革に関する一般の意見を求めた際、月性が書いた建白書の原稿((公財)僧月性顕彰会蔵)
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  • ※1 萩藩士。多くの志士を輩出した松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰。本文※1へ戻る
  • ※2 高杉晋作(たかすぎ しんさく)と共に松下村塾の双璧といわれた。本文※2へ戻る
  • ※3 安政の大獄の際、西郷隆盛(さいごう たかもり)と逃れ、海に身を投げて亡くなった僧・月照(げっしょう)とは別人。本文※3へ戻る
  • ※4 七言律詩の漢文の一部。「男子が志を立てて郷里を出るからには、もし学業が成就しないならば再び帰らない決意だ。骨を埋めるのになぜ郷里の墓地に固執しようか。どこへ行っても骨を埋める青々とした地がある。そこに埋めてもらえば十分だ」という意味。本文※4へ戻る
  • ※5 豊前国(ぶぜんのくに。現在の福岡県東部、大分県北部)の儒学者で、兵学も修めた恒遠醒窓(つねとお せいそう)の私塾など。本文※5へ戻る
  • ※6 詩や書などで高名な儒学者・篠崎小竹(しのざき しょうちく)や、浄土真宗本願寺派を代表する学僧・超然(ちょうねん)、将軍にも招かれた高名な学者・斎藤拙堂(さいとう せつどう)など。本文※6へ戻る
  • ※7 別名を「時習館」ともいう。本文※7へ戻る
  • ※8 塾生では、後に松陰に学び、奇兵隊の総督となった赤根(禰)武人(あかね たけと)や、第二奇兵隊軍監などを務めた世良修蔵(せら しゅうぞう)、明治維新後、仏教界を代表して政府との折衝に当たった大洲鉄然(おおず てつねん)など。本文※8へ戻る
  • ※9 祖父の三男は泉福寺(せんぷくじ)、四男は光山寺(こうさんじ)の住職。泉福寺は松陰が養子に入った吉田家の菩提(ぼだい)寺。本文※9へ戻る
  • ※10 萩藩医で蘭学(らんがく)も修めた。本文※10へ戻る
  • ※11 萩藩の周布政之助(すふ まさのすけ)らが中心となり、時事問題を活発に議論するために作った結社「嚶鳴社(おうめいしゃ)」の一員でもあった。本文※11へ戻る
  • ※12 その後、松陰は討幕論へと考えを変えていく。本文※12へ戻る
  • ※13 肥後国(ひごのくに。現在の熊本県)の志士。嘉永3(1850)年、九州遊歴中の松陰と知り合い、翌年江戸へ出ると、松陰の東北遊歴にも同行した。本文※13へ戻る
【参考文献】
海原徹『月性 人間到る処青山有り(ミネルヴァ日本評伝選)』2005
月性顕彰会『維新の先覚月性の研究』1979
武田勘治『久坂玄瑞』1998
福本義亮『久坂玄瑞全集』1992
吉田松陰『吉田松陰全集』第10巻 1974など
【おすすめリンク】

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