ここから本文

2014年7月11日号 vol.275
おもしろ山口学/吉川元春父子と黒田官兵衛父子の絆/写真:岩国市の吉香(きっこう)公園の北西、「吉川家墓所」にある吉川広家の墓所(左)と「吉川広家像 江戸時代」(吉川史料館(岩国市)蔵)(右)

写真:岩国市の吉香(きっこう)公園の北西、「吉川家墓所」にある吉川広家の墓所(左)と
「吉川広家像 江戸時代」(吉川史料館(岩国市)蔵)(右)

第2回 関ケ原の戦い-広家と長政を結んだ密書と、家康の違約-
乱世の中で交わされた貴重な書状などを通じて紹介します。

「吉川氏の関ケ原展」
吉川史料館蔵の関ケ原の戦い前後の書状などが展示されます。
期間:9月15日(月曜日・祝日)まで ※水曜日は休館(祝日の場合は翌日)
場所:吉川(きっかわ)史料館(岩国市)
小展示「館蔵資料にみる黒田官兵衛(くろだ かんべえ)」
吉川元春(もとはる)書状が展示されます。
期間:8月1日(金曜日)から28日(木曜日)まで。 ※月曜日は休館。
場所:山口県文書館(山口市)

慶長5(1600)年9月15日、石田三成(いしだ みつなり)(※1)らの西軍と、徳川家康(とくがわ いえやす)らの東軍が戦った「関ケ原の戦い」。西軍が大敗した理由の一つは、西軍だった毛利(もうり)一族の吉川広家(きっかわ ひろいえ)(※2)が東軍に内通し、毛利軍を当日動かさず、参戦を阻止したことにあります。

そのとき、広家と家康をつないだのは、東軍に付いた黒田孝高(くろだ よしたか。通称・官兵衛(かんべえ)(※3))の長男・長政(ながまさ)でした。豊臣秀吉の政権下で絆が育まれた官兵衛父子と元春(もとはる)・広家父子。元春亡き後、広家が信頼を深め、敵対する陣営に加わっても断ち切れることのなかった官兵衛父子との絆は、小さな密書をはじめ、現在、吉川史料館に所蔵されている数々の書状からうかがえます。

内通に至る広家の苦悩は、関ケ原の戦いの2カ月前、挙兵を決めた三成らに、毛利輝元(てるもと)(※4)が加担を決意したことに始まります。広家は西軍の敗北を見越し、輝元を止めるべく動きます。しかし、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)(※5)が三成らと共に輝元を西軍の総大将としたことから、広家自身も毛利軍の将としてやむなく出陣し、その苦悩を一層深めます。

子孫へ託した黒田家との絆。官兵衛の墓所のそばに眠る広家

西軍の敗北を見越し、祖父や父の遺志だった毛利氏存続の道を探る広家。そこで懇意にしていた長政を介して家康に、「今回の企てについて輝元は関知していません。ただ恵瓊の策に乗せられただけなのです」との書状を送ります。長政はそれに応え、家康へ事情を説明して了承を取り付けるとともに、家康と輝元の連携を広家に促します。そのことを伝える使者は、関所を通り抜けるため、家康の書状を帯に縫い込み、長政の密書を細く切り裂いて笠(かさ)の緒にひねり込み、広家へもたらします(※6)

その後もやりとりは続き、9月14日、広家は家康の重臣から「家康へ忠節を尽くせば、毛利氏の領地は今後も現状通り」と約束する起請文(※7)を得て、輝元に相談せず、東軍との講和(※8)をひそかに締結。翌日の関ケ原の戦いでは、広家は約束通り、毛利軍を動かさず、戦いは西軍の敗北で終結しました。

大坂城にいた輝元は、戦いの後、あらためて家康の重臣から「領地は今後も現状通り」と約束を取り付け、安心して大坂城から退きます。

ところが、間もなく家康は態度を一変。毛利氏に全領土没収を言い渡します。驚いた広家は長政に家康へのとりなしを懇願します(※9)。その結果、家康は10月、毛利氏に対し、全領土没収の方針は改め、防長(ぼうちょう)2カ国(現在の山口県)のみの領有を認めます。

しかし、広家は責任を感じ続けていたのか、輝元への弁明書など3通が今も残っています(※10)。そのうちの一つは6メートルにも及び、「西軍の大敗は毛利軍が動かなかったためと取り沙汰されていますが、前日に東軍と交わした血判の起請文に背くことはできませんでした」とつづられています。

広家は晩年、息子2人に47カ条にわたる処世の心得を残します。そこには毛利氏への奉公を怠ってはならないことなどを記すとともに、官兵衛父子について次のように触れています。「黒田長政殿は官兵衛殿以来、間に立ち、よくしてくれています。よって今後も黒田家に協力することが大事です」。

寛永2(1625)年、広家は死去。毛利氏から分与された吉川氏の新たな本拠地・岩国だけでなく、遺命によって、京都の寺にある官兵衛の墓のそばにも墓が建てられ、分骨されました(※11)。広家は死後も、吉川氏と黒田氏との絆を、官兵衛と共に見守り続けようとしたのかもしれません。

「吉川広家自筆覚書案」(吉川史料館(岩国市)蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

(慶長6(1601)年)「吉川広家自筆覚書案」(吉川史料館(岩国市)蔵)。関ケ原の戦いなどに関する吉川家の文書は、錦帯橋(きんたいきょう)近くにある吉川史料館が所蔵。平成26(2014)年9月15日まで展示
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

「黒塗鯰形兜(くろぬりなまずなりかぶと)」(吉川史料館(岩国市)蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「黒塗鯰形兜(くろぬりなまずなりかぶと)」(吉川史料館(岩国市)蔵)。関ケ原の戦いの前日、広家が長政へ書状を届けた際、使者にこのナマズ形の兜を着用させて遣わしたと伝わる
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

「芦屋釜(あしやがま)」(吉川史料館(岩国市)蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

官兵衛が元春へ贈った茶釜「芦屋釜(あしやがま)」(吉川史料館(岩国市)蔵)。官兵衛が秀吉から拝領した茶釜と伝わる。吉川家では「如水釜」と呼んで大切にしてきた。現在は展示されていません
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。


  • ※1 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)に仕えた近江国(おうみのくに。現在の滋賀県)生まれの武将。本文※1へ戻る
  • ※2 安芸国(あきのくに。現在の広島県西部)を拠点とした戦国大名・毛利元就(もとなり)の孫。本文※2へ戻る
  • ※3 播磨国(はりまのくに。現在の兵庫県南西部)生まれの武将。本文※3へ戻る
  • ※4 毛利家の当主。元就の孫。本文※4へ戻る
  • ※5 毛利氏の代理として、中央や他の戦国武将らとの交渉などを担った僧。本文※5へ戻る
  • ※6 吉川史料館蔵。使者がどうやって持ち帰ったかを記した紙片が、それぞれの書状に添えて保管されている。本文※6へ戻る
  • ※7 自分の行為に偽りがないことを神仏に誓い、相手に表明する文書。本文※7へ戻る
  • ※8 広家は、東軍との講和について、自分と毛利氏重臣の福原広俊(ふくばら ひろとし)のみで決めた、と輝元への覚書に記している。本文※8へ戻る
  • ※9 長政は「毛利氏の関与が判明したためです。ただし、家康は広家殿の律義さを認め、広家殿に1、2カ国を与えると約束されました」と伝え、広家は「毛利の家が存続できないなら自分も同罪に」と長政らを通じて家康に嘆願したとされる。吉川家譜、黒田家譜による。本文※9へ戻る
  • ※10 吉川史料館蔵。本文※10へ戻る
  • ※11 黒田家譜などによる。その寺は大徳寺の塔頭(たっちゅう)の一つで、長政が父の菩提(ぼだい)を弔うために建立したもの。なお、常時非公開。本文※11へ戻る
【参考文献】
岩国市史編纂委員会編『岩国市史』上1970
NHK、NHKプロモーション編『2014年NHK大河ドラマ特別展 軍師官兵衛』2014
三卿伝編纂所編『毛利輝元卿伝』1982
笠谷和比古『関ケ原合戦と大坂の陣(戦争の日本史17)』2007
東京大学史料編纂所編『大日本古文書 家わけ第九(吉川家文書之一)』1970
東京大学史料編纂所編『大日本古文書 家わけ第九(吉川家文書之二)』1970など
【おすすめリンク】
下記リンク先本文中のイベント等は掲載時のもので終了していますので、ご注意ください。
おもしろ山口学バックナンバー

ページの先頭へ戻る



バックナンバー

記載されている情報(特にリンク)は発行時点のものです。このため、リンク先がない場合、あるいは更新されている場合等ありますので御了承ください。


ページの先頭へ戻る

ページの先頭へ