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2014年6月27日号 vol.274
おもしろ山口学/吉川元春父子と黒田官兵衛父子の絆/写真:関門海峡。天正14(1586)年秋、秀吉の指示で、毛利氏らは対岸の九州へ渡り、小倉城を攻略した

写真:関門海峡。天正14(1586)年秋、秀吉の指示で、
毛利氏らは対岸の九州へ渡り、小倉城を攻略した

第1回 元春の死を経て
乱世の中で交わされた貴重な書状などを通じて紹介します。

小展示「館蔵資料にみる黒田官兵衛(くろだ かんべえ)」
今回紹介した天正14(1586)年9月25日付け吉川元春(きっかわ もとはる)書状が展示されます。
期間:8月1日(金曜日)から28日(木曜日)まで。 ※月曜日は休館。
場所:山口県文書館(山口市)
「吉川氏の関ケ原展」
関ケ原の戦い前後の吉川史料館蔵の書状などが展示されます。
期間:9月15日(月曜日・祝日)まで ※水曜日は休館(祝日の場合は翌日)
場所:吉川史料館(岩国市)

豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の軍師・黒田孝高(くろだ よしたか)、通称・官兵衛(かんべえ)(※1)。官兵衛は、毛利(もうり)氏(※2)を支えた吉川(きっかわ)氏(※3)と、初めは敵同士でありながら、後に強い絆を築いていった人物でもありました。その関係の変化は、書状などからたどることができます。

官兵衛と吉川氏との関係は、秀吉らによる「中国攻め」の講和(※4)を機に始まります。その後、官兵衛は講和に伴う毛利氏の領土割譲交渉を担当するなど、折々で毛利氏との関係を深めていきます。

やがて関白となって天下統一を目指す秀吉は、命令に従わない島津(しまづ)氏(※5)を攻める「九州攻め」に着手します。天正14(1586)年、秀吉は、その先鋒(せんぽう)の指揮を官兵衛らに委ねるとともに、毛利氏や吉川氏らへ出陣を要請します。

隠居していた元春は、要請に応え、長男(※6)や三男の広家(ひろいえ)らと出陣。その途上、関門海峡近くまで進んだ際、元春が留守を頼む次男(※7)に送った書状が山口県文書館に所蔵されています。それは九州各地で刻々と変化する戦況や、秀吉・毛利氏の出陣で浮き足立つ敵方のことなどを伝えた9月25日付けの貴重な書状です。

元春・広家と官兵衛。九州攻めを経て深まる絆

そこには次のようなことが書かれています。九州攻めの戦略を官兵衛や元春の弟の小早川氏と話し合っていること。敵方の小倉城(※8)への攻撃について、官兵衛は今日明日中にそれぞれ渡海し、門司の要害の麓に集結して小倉城を攻めることを主張したのに対し、元春は、毛利氏の軍勢は十分にそろっていないため、軍勢の集結を待った上で渡海するべきとの意見を示したこと。

官兵衛の提案は、少しでも早く軍勢を渡海させて敵方の動揺を誘うとともに、九州にいる味方に援軍到着を知らせる効果を重視したのに対し、元春は、軍勢をそろえて敵城を攻略する方が効果は大きいと考えたのかもしれません。結果的には元春の提案が採用され、軍勢の集結のために数日を待ち、10月4日には小倉城を攻め落とします。

ところが、降伏した敵方は、ほどなくして別の地で再び挙兵。その戦いの最中、元春は持病が悪化し、11月15日に亡くなります。中国地方を一代で制覇した毛利元就の子として、元就亡き後も戦場を駆け巡った元春。戦国武将・吉川元春の生涯は、最期まで戦陣と共にあったのでした。

天正15(1587)年春、秀吉が自ら出陣し、九州を手中に収めます。それから間もない6月、元春の長男も、陣中で病死します。父と兄を相次いで亡くした三男・広家が、長兄の遺志によって吉川家を継ぎ、官兵衛との絆を次第に深めていきます。

天正19(1591)年、広家は天下統一を果たした秀吉の命令によって、10万石を超える領地を与えられます。これは、官兵衛が秀吉へ強く働き掛けた結果によるもので、そのことは官兵衛が広家の重臣へ宛てた書状(※9)から知ることができます。

そして秀吉の死去から約1カ月後の慶長3(1598)年9月には、官兵衛は広家へ、官兵衛の跡を継いだ息子・長政(ながまさ)のことに触れた次のような書状(※10)を送っています。「長政をおとと(弟)と思ってください。頼みます」。両者の絆はそれほど強まっていたのでした。

戦国武将らの必死の攻防。かつての敵対関係を超越した絆…。書状は、乱世の人々の思いを生き生きと浮かび上がらせてくれます。

(天正14年)9月25日付け「吉川元春書状」(山口県文書館蔵)の一部の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

(天正14(1586)年)9月25日付け「吉川元春書状」(山口県文書館蔵)の一部。写真右端「一」から始まる行の2行目と、6行目に「黒官(黒田官兵衛のこと)」とある。赤で囲った部分
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住吉神社の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

下関市にある住吉神社。吉川元春書状に、元春らは(天正14(1586)年)9月22日に一宮(現在の住吉神社)に着陣したとある
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「吉川元春像 桃山時代」(吉川史料館(岩国市)蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「吉川元春像 桃山時代」(吉川史料館(岩国市)蔵)
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  • ※1 播磨国(はりまのくに。現在の兵庫県南西部)生まれの武将。本文※1へ戻る
  • ※2 安芸国(あきのくに。現在の広島県西部)を拠点とした戦国大名。本文※2へ戻る
  • ※3 毛利元就(もとなり)の次男・元春(もとはる)が、安芸国の吉川家を継いだ。小早川(こばやかわ)家を継いだ、元就の三男・隆景(たかかげ)と共に、「毛利両川(もうり りょうせん)」として毛利氏を支えた。江戸時代、岩国の領主となる。本文※3へ戻る
  • ※4 当時、織田信長(おだ のぶなが)の家臣だった秀吉による「高松城の水攻め」として知られる現在の岡山市での戦いの講和。本文※4へ戻る
  • ※5 薩摩国(さつまのくに。現在の鹿児島県)を拠点とした戦国大名。本文※5へ戻る
  • ※6 元長(もとなが)。本文※6へ戻る
  • ※7 元棟(もとむね)。このころ、現在の山口市仁保(にほ)を拠点とした仁保氏を継いでいた。後に阿川(あがわ)毛利家の祖となる。本文※7へ戻る
  • ※8 現在の北九州市にある城。本文※8へ戻る
  • ※9 吉川史料館(岩国市)蔵。本文※9へ戻る
  • ※10 吉川史料館(岩国市)蔵。本文※10へ戻る
【参考文献】
NHK、NHKプロモーション編『2014年NHK大河ドラマ特別展 軍師官兵衛』2014
瀬川秀雄『吉川元春』1997
東京大学史料編纂所編『大日本古文書 家わけ第九(吉川家文書之一)』1970
東京大学史料編纂所編『大日本古文書 家わけ第九(吉川家文書之二)』1970
山口県編『山口県史 史料編 中世3』2004
山本浩樹『西国の戦国合戦(戦争の日本史12)』2009など
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