ここから本文

2014年6月13日号 vol.273
おもしろ山口学/志は平凡であってはならない。吉田松陰とナポレオンと山田顕義/写真:萩市にある顕義誕生地。日本大学が「顕義園(けんぎえん)」として整備。右手を胸に、左手を法典に置いた顕義の像がある

写真:萩市にある顕義誕生地。日本大学が「顕義園(けんぎえん)」として整備。
右手を胸に、左手を法典に置いた顕義の像がある

近代法の整備や大学の創設などに尽力した山田顕義を紹介します。

生誕170年記念特別展「山田顕義と近代日本」
山田顕義(やまだ あきよし)の足跡を萩博物館や日本大学などの所蔵品を通して紹介。昭和63(1988)年から平成元(1989)年にかけて顕義の墓所整備に伴って行われた日本大学の大規模な学術調査による、顕義の遺体のレントゲン写真など、謎とされてきた死因に関するものなども展示。
期間:6月22日(日曜日)まで
場所:萩博物館

吉田松陰(よしだ しょういん)(※1)に学び、明治時代には軍人から政治家へ転じて初代司法大臣となった山田顕義(やまだ あきよし)。「剣」と「法」の双方に深く関わったことから、自身も憧れたナポレオン(※2)に例えられることもある人物です(※3)

顕義は弘化元(1844)年、萩で生まれました。顕義の少年時代、松陰は黒船への乗り込みに失敗してとらわれ、萩藩士の間で危険視されていました。しかし、西洋兵学に通じていた父や親族(※4)は松陰と親しく、顕義は松陰に学ぶようになります。

当時「市イー(※5)」と呼ばれていた顕義について、松陰を補佐し教えていた人物(※6)が後に語っています。それは正月のこと。市イーが年始のあいさつに来て、帰ったと思ったらまた来て、こう言ったというのです。「吉田先生の所へ年始に行(いっ)たら、此(こ)の時勢に當(あたっ)て、年始所(どころ)ではないと云(い)ふて非常に叱(し)かられたから、ドーカ先生謝(ことわっ)てくれろと、涙ぐんで…」(※7)

その逸話のように当時の顕義は、幼さが残る、まだ時勢に疎い少年でした。師の松陰の方は、日本に列強の脅威が迫る中、幕府に憤りを募らせ、「那波列翁(ナポレオン)を起(おこ)してフレーヘード(※8)を唱えねば」と、ナポレオンが革命を起こしたように、日本を変えるには志ある人々が立ち上がらねば(※9)と考えるようになります。

そんな松陰から、顕義は次のような意味の詩が書かれた扇を贈られています。「志は平凡であってはならない。百年は一瞬。無駄に禄(ろく)(※10)を食(は)んではならない」。松陰の詩は顕義の胸に響いたのでしょう。松陰の死後、一周忌に墓参りすると、「涙河の如(ごと)し」と松陰を思い、自分がすべきことは何かを問う長詩を作成。その後、松下村塾の先輩らと志士として奔走していきます。

最期まで心にあった、ふるさとの師や同志たち

やがて顕義は大村益次郎(おおむら ますじろう)(※11)から用兵の才能を認められ、明治維新後は軍人の道を進みます。

そして明治4(1871)年、欧米を視察する岩倉(いわくら)使節団に軍制の視察のため参加したことが転機となります。転機を与えた人物は、同じ萩出身で、松陰と親しかった、使節団の副団長・木戸孝允(きど たかよし)(※12)。木戸らにとって、その旅は法律や教育の制度などについて先進諸国と日本との違いを痛感するものでした。木戸の日記には顕義の名が度々登場し、語り合う機会が多かった顕義に影響を与えたと考えられます。顕義は、先進諸国と肩を並べるには軍備以前に法律などを整える必要があると痛感し、帰国後、兵制だけでなく、法律の整備や教育の必要性についても意見した建白書を政府に提出。顕義はその後、軍人から政治家の道へ転じ、明治18(1885)年には初代司法大臣に就任。近代法の整備に尽力し、さらに法曹界の人材育成のため、現在の日本大学(※13)などの創設に携わりました。

明治25(1892)年、顕義は幕末に松下村塾の先輩らと誓い合った血盟書(※14)を見て、感慨を記します。「先輩の士の多くは死をもって国に殉じたが、維新が成った基はここにあったのだ」と。幕末以来、国事に奔走し続けていた顕義は、その年ようやく28年ぶりに萩へ。そして東京への帰途、不慮の死を遂げます(※15)

幕末から維新へ。軍人から身を起こし、現代に通じる民法典を制定したナポレオンのように、剣から法へ。平凡でない道を歩む顕義の背を押し続けたのは、師の松陰が贈った扇からの風だったのかもしれません。

山田顕義の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

岩倉使節団で訪れたパリで撮影した顕義の写真。フランス陸軍少将の軍服を着ている(萩博物館蔵)
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

松陰の扇面詩の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

顕義に志の大切さを諭した松陰の扇面詩(日本大学大学史編纂課蔵)
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。

晩年の顕義の写真をもとにした銅板画の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

晩年の顕義の写真をもとにした銅板画(萩博物館蔵)
※写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります。


  • ※1 萩藩士。多くの志士を輩出した松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰。本文※1へ戻る
  • ※2 フランスの軍人・政治家。民法典のナポレオン法典を制定した。本文※2へ戻る
  • ※3 古川薫(ふるかわ かおる)さんの小説『剣と法典 小ナポレオン山田顕義』など。また顕義は明治9(1876)年、「那破列翁(ナポレオン)」と題した漢詩を作っている。本文※3へ戻る
  • ※4 大伯父は萩藩の改革者・村田清風(むらた せいふう)。伯父の山田亦介(やまだ またすけ)は松陰の師の一人。本文※4へ戻る
  • ※5 当時の顕義の名「市之允(いちのじょう)」から付いた呼び名。本文※5へ戻る
  • ※6 富永有隣(とみなが ゆうりん)。本文※6へ戻る
  • ※7 国木田独歩(くにきだ どっぽ)「吉田松陰及び長州先輩に関して」『明治文学全集66国木田独歩集』1974より。独歩は山口県に一時居住し、明治24(1891)年には田布施に住んでいた有隣を訪れて話を聞き、記録した。本文※7へ戻る
  • ※8 オランダ語で自由という意味。本文※8へ戻る
  • ※9 兵学者・佐久間象山(さくま しょうざん)のおいに宛てた安政6(1859)年4月7日付けの手紙より。本文※9へ戻る
  • ※10 藩主からの給与。本文※10へ戻る
  • ※11 鋳銭司(すぜんじ)村(現在の山口市鋳銭司)で町医者の子として生まれ、軍政家となった。本文※11へ戻る
  • ※12 元萩藩士。幕末・維新期の日本を代表する政治家の一人。本文※12へ戻る
  • ※13 前身の日本法律学校を創設。また、顕義は國學院大學の創設にも携わった。本文※13へ戻る
  • ※14 文久2(1862)年、高杉晋作(たかすぎ しんさく)らが攘夷(じょうい)実行を誓った血盟書。本文※14へ戻る
  • ※15 顕義の死因は当時公表されず、暗殺説も出たが、日本大学による大規模な墓所発掘調査の結果、生野(いくの)銀山の坑道転落の可能性が高くなった。本文※15へ戻る
【参考文献】
富田仁『岩倉使節団のパリ-山田顕義と木戸孝允 その点と線の軌跡-』1997
萩博物館編『松下村塾開塾150年記念 吉田松陰と塾生たち』2008
萩博物館編『山田顕義と近代日本 生誕170年記念特別展』2014
日本大学編『山田顕義伝』1963など
【おすすめリンク】
下記リンク先本文中のイベント等は掲載時のもので終了していますので、ご注意ください。
おもしろ山口学バックナンバー「萩に眠る古写真」

ページの先頭へ戻る



ページの先頭へ