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2014年4月25日号 vol.271
おもしろ山口学/萩藩の記録から見えてきた「寛政の改革」の松平定信と平家物語/写真:「平家物語」と記された「諸事小々控(しょじこまごまびかえ)」(山口県文書館蔵)(左)と『集古十種』(山口県立山口図書館蔵)に収められた下関阿弥陀寺の障子絵(右)

写真:「平家物語」と記された「諸事小々控(しょじこまごまびかえ)」(山口県文書館蔵)(左)と
『集古十種』(山口県立山口図書館蔵)に収められた下関阿弥陀寺の障子絵(右)

定信が萩藩に懇望した赤間神宮所蔵の『平家物語』を紹介します。

第9回中国・四国地区アーカイブズウィーク
「美術とアーカイブズ -古文書に見る防長の美術工芸品-」
山口県を代表する優れた美術工芸品の歴史を物語る、山口県文書館蔵の史料についての展示・ギャラリートーク・歴史探究講座のほか、文書館書庫見学、専門研究員によるアーカイブズ歴史小話などが行われます。
期間:5月31日(土曜日)から6月8日(日曜日)まで ※月曜日休館
場所:山口県文書館

江戸時代後期、幕政を立て直すため、倹約令や貧民救済、出版の統制といった「寛政の改革」を断行した幕府老中・松平定信(まつだいら さだのぶ)(※1)。その定信が老中辞任後、『下関阿弥陀寺(あみだじ)本 平家物語(※2)』の書写本を萩藩に懇望し、進呈されていた経緯をつづった記録が近年、山口県文書館の所蔵史料から発見されました。

それは寛政5(1793)年11月、萩藩の江戸藩邸から萩の国元役所へ次のような書状が届いたことに始まります。「松平越中守(えっちゅうのかみ。定信)様が、下関阿弥陀寺本 平家物語12冊が萩城にあると聞き、その書写を懇望しておられます。松平様には、殿様との間柄(※3)がある上、かねがねお世話になっており、お断りもできません」。

下関阿弥陀寺とは、源平最後の合戦「壇ノ浦(だんのうら)の戦い」で関門海峡に入水(じゅすい)された安徳(あんとく)天皇(※4)の冥福を祈る寺で、現在の赤間神宮に当たります。平家物語とは平家一門の隆盛から壇ノ浦で滅ぶまでを伝える物語で、さまざまな種類があり、12冊から成るものが一般的です。しかし、下関阿弥陀寺本は20冊にも及ぶもので、書状からは定信が12冊と思い込んでいたことが分かります。

「文化財保護の先駆者」定信の目に留まった赤間神宮所蔵の『平家物語』

そのとき萩城にあった平家物語は、下関阿弥陀寺本の写しだったようです。国元役所は、それが城のお宝蔵にあることを確認すると、吉武多熊(よしたけ たくま)(※5)という萩藩士を萩城に呼び出し、書写を命じます。多熊は右筆(ゆうひつ)(※6)の家柄ではありませんが、書写の腕が評判(※7)で白羽の矢が立ったものと思われます。

国元役所が高級な美濃紙を用意し、多熊による書写、念入りな校正、読み合わせへと進み、全20冊を箱に入れ、いよいよ届ける段階になると、江戸藩邸へ次のような連絡をしています。「松平様のお好みもあるでしょうから表紙は付けず、糸でとじることはしておきました。題戔(だいせん)(※8)も用意しておきました」。そして依頼から約10カ月を経た寛政6(1794)年9月、完成品は江戸藩邸を通じて定信に届けられ、「見事な出来」とほめられたのでした。

定信は政治家の印象が強い人物ですが、古いものを写す・集めることを好み、絵巻などの補作・制作(※9)も手掛けた優れた文化人でもありました。しかも単なる収集ではなく、絵師(※10)らを日本各地に派遣して寺社の宝物などを調査・筆写させ、85冊もの記録集(※11)を刊行。その中には、平家一門の肖像画など下関阿弥陀寺のものも13点収められています。定信は日本古来の文化財を初めて全国規模で総合的に調査した、いわば文化財保護・アーカイブ(記録保存)の先駆者ともいえる人だったのです(※12)

赤間神宮所蔵の平家物語は明治39(1906)年、国宝に指定されます(※13)。しかし、赤間神宮の社殿は昭和20(1945)年、空襲で焼失。その火災で平家物語は本の外周部を著しく損傷しますが、懸命な修復により、国指定重要文化財として踏みとどまることができました。文化財保護の先駆者・定信の目に留まった赤間神宮所蔵の平家物語。今も山口県が誇る文化財です。

源平船合戦の様子/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

下関市では、毎年5月2日から4日まで、壇ノ浦の戦いを基にした「しものせき海峡まつり」を開催。写真は源平船合戦の様子
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先帝祭の様子/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「しものせき海峡まつり」で、赤間神宮などを舞台に行われる、安徳天皇をしのぶ「先帝祭」
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赤間神宮の水天門の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

赤間神宮の水天門(すいてんもん)。宝物殿では、空襲で損傷後、修復した平家物語(長門本)のレプリカを展示
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  • ※1 8代将軍・徳川吉宗(とくがわ よしむね)の孫。白河藩(現在の福島県白河市など)の藩主となり、天明の飢饉(ききん)で一人の餓死者も出さなかったことなどが評価され、幕府老中首座となった。本文※1へ戻る
  • ※2 現在の名称は「紙本墨書(しほんぼくしょ)平家物語(長門本)」赤間(あかま)神宮蔵。本文※2へ戻る
  • ※3 当時の萩藩主の父で前・萩藩主の毛利治親(もうり はるちか)は、定信の姉を正室としていた。本文※3へ戻る
  • ※4 数え年8歳で亡くなった。母は平清盛(たいらのきよもり)の娘。本文※4へ戻る
  • ※5 三田尻(みたじり。現在の防府市三田尻)に住んでいた、萩藩の水軍の船を操る「中船頭」という家柄の藩士。本文※5へ戻る
  • ※6 文書・記録の執筆・作成を担当する職。本文※6へ戻る
  • ※7 その記録には、以前も松平家からの依頼の際、多熊が書写したことが記されている。本文※7へ戻る
  • ※8 題名を書く紙。本文※8へ戻る
  • ※9 欠損していた「石山寺縁起絵巻」(国の重要文化財)を補作。また、平家物語に絵を加えた平家物語絵巻を制作させ、文化8(1811)年完成。本文※9へ戻る
  • ※10 高名な絵師・谷文晁(たに ぶんちょう)など。本文※10へ戻る
  • ※11 書画や文房具など10種の美術品約1,900点を掲載した『集古十種(しゅうこじっしゅ)』。本文※11へ戻る
  • ※12 その動機は古いものから学び、尊ぶことを通して人々の心を育てようとした、また、古い物が失われることを危惧したと考えられている。本文※12へ戻る
  • ※13 当時、国宝と国指定重要文化財の区別はない。昭和25(1950)年制定の文化財保護法で従来の国宝は重要文化財と改称され、その中から国宝が指定された。本文※13へ戻る
【参考文献】
渋沢栄一『楽翁公伝』1937
福島県立博物館『あるく・うつす・あつめる 松平定信の古文化財調査 集古十種』2000など
【関連リンク】
山口県の文化財「紙本墨書平家物語(長門本)」

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