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2014年4月11日号 vol.270
おもしろ山口学/新発見の書状が裏付ける「異国仁」の焼物師と萩焼/写真:「異国仁(人)」と記された「伊秩采女正書状(松本焼の事)」(山口県文書館蔵)(左)と江戸時代前期の作「萩割高台茶碗」(山口県立萩美術館・浦上記念館蔵)(右)

写真:「異国仁(人)」と記された「伊秩采女正書状(松本焼の事)」(山口県文書館蔵)(左)と
江戸時代前期の作「萩割高台茶碗」(山口県立萩美術館・浦上記念館蔵)(右)

山口県文書館が所蔵する書状から見えてきた、萩焼発祥のころを紹介します。

第9回中国・四国地区アーカイブズウィーク
「美術とアーカイブズ -古文書に見る防長の美術工芸品-」
山口県を代表する優れた美術工芸品の歴史を物語る、山口県文書館蔵の史料についての展示・ギャラリートーク・歴史探究講座のほか、文書館書庫見学、専門研究員によるアーカイブズ歴史小話などが行われます。
期間:5月31日(土曜日)から6月8日(日曜日)まで ※月曜日休館
場所:山口県文書館

山口県が誇る美術工芸品「萩焼(※1)」。萩における、その歴史は、江戸時代の17世紀初め、異国人の李勺光(り しゃっこう)・李敬(けい)兄弟によって始まった、とされてきました。しかし、それは18世紀の記録などに書かれた伝承によるもので、不確かなことも含んでいます。そうした中、異国人によって始まったことなどを初めて裏付ける、萩焼発祥のころの貴重な手紙が近年、山口県文書館の所蔵資料から発見されました。

それは長府(ちょうふ)藩(※2)の藩主・毛利秀元(もうり ひでもと)(※3)の家老(※4)が、本藩である萩藩の重臣2人へ宛てた手紙です。日付は11月7日としかありませんが、内容などから朝鮮通信使(※5)が来日した寛永元(1624)年の手紙と考えられます。そこには、朝鮮通信使のおもてなし用に焼物の完成を間に合わせることや、当時「坂助八(さか すけはち)」「山村新兵衛(やまむら しんべえ)」と呼ばれていた焼物師2人の命名に関することが、次のように記されていました。

「助八に(萩藩主の毛利秀就(ひでなり)様が)名を、新兵衛には大殿様(※6)が名をお付けになることが決まりました」。藩主や藩主の父による命名は、大変な名誉であり、萩藩・毛利氏の家臣、御用焼物師(※7)としての位置付けが定まったことも意味します。

続いて手紙には、焼物師が「異国仁(人)」であることがはっきりと記され、「甲斐守(かいのかみ。長府藩主・秀元)のお考えもうかがっておきます」とあります。焼物師が異国人であることが明記された萩焼の史料は他になく、この手紙の発見は非常に価値があります。

命名の背景と、約400年の伝統と誇り

以前から、新兵衛は寛永2(1625)年4月2日に「作之允(さくのじょう)」の名を輝元から、助八は同年11月22日に「高麗左衛門(こうらいざえもん)」の名を秀就からそれぞれ与えられたことは分かっていました。その事実に加え、手紙の発見により、命名への動きが寛永元(1624)年には始まっていたことも見えてきました。

当時、手紙の差出人の主人である秀元は、長府藩主であるだけでなく、秀就の父・輝元から頼まれ、年若い初代萩藩主・秀就の後見役を務めていました。その時期の、この手紙からは、秀元の意向が本藩である萩藩の政治に幅を利かせていたことがうかがえます。また秀元は、千利休(せんのりきゅう)の弟子・古田織部(ふるた おりべ)(※8)に学んだ「茶人大名」でもありました(※9)

そうした背景にあって、この手紙は、萩焼が生まれて間もないころ、焼物師2人はすでに、外交使節である朝鮮通信使をもてなす焼物を任せられるほどの腕前だと、輝元や秀就、そして茶人大名の秀元も認めていたことを教えてくれます。

18世紀の記録に書かれた伝承によれば、山村新兵衛とは朝鮮半島出身の李勺光と日本人の妻との間に生まれた息子であり、坂助八(高麗左衛門)とは李敬、とされています。そのうち、新兵衛の「山村家」は安永3(1774)年に断絶しますが、高麗左衛門の名は現在に至るまで「坂家」で継承されてきました。

1通の手紙を通じ、発祥のころのことが浮かび上がってきた萩焼。その伝統と誇りは約400年にわたって受け継がれ、萩焼は今も山口県を代表する美術工芸品であり続けています。

「伊秩采女正書状(松本焼の事)」(山口県文書館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「伊秩采女正書状(松本焼の事)」(山口県文書館蔵)。和紙を横半分に折り、折り目を下にして書く書状のため、文字が上下に向かい合っている
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天和4(1684)年の作「萩三島写茶碗『椎葉』」(山口県立萩美術館・浦上記念館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

天和4(1684)年の作「萩三島写茶碗『椎葉』」(山口県立萩美術館・浦上記念館蔵)
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「毛利秀元画像 狩野探幽(かのう たんゆう)筆」(長府毛利家蔵 下関市立長府博物館寄託)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「毛利秀元画像 狩野探幽(かのう たんゆう)筆」(長府毛利家蔵 下関市立長府博物館寄託)
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  • ※1 窯は松本村(現在の萩市椿東)にあったことから、萩藩では「松本焼」と呼称していた。本文※1へ戻る
  • ※2 現在の下関市の多くを領地とした藩。萩藩の支藩の一つ。本文※2へ戻る
  • ※3 毛利元就(もとなり)の孫。毛利家の家督を継いだ輝元(てるもと)は、いとこ。本文※3へ戻る
  • ※4 伊秩采女正(いずち うねめのしょう)。本文※4へ戻る
  • ※5 朝鮮国王が日本に派遣した外交使節。本文※5へ戻る
  • ※6 輝元と考えられる。なお、輝元は寛永2(1625)年4月27日没で、同年4月2日の新兵衛への命名は最晩年のこと。本文※6へ戻る
  • ※7 藩に召し抱えられた焼物師。本文※7へ戻る
  • ※8 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)・徳川家康(とくがわ いえやす)に仕えた武将。本文※8へ戻る
  • ※9 後に3代将軍・徳川家光(とくがわ いえみつ)に献茶する大茶会を江戸で開催。その功績により家光から拝領した屋敷を江戸長府藩邸とした(現在は六本木ヒルズの敷地)。本文※9へ戻る
【参考文献】
河野良輔「萩焼の歴史」『萩焼古窯 -発掘調査報告書-』1990
下関市立長府博物館『長府毛利十四代記』2011
吉積久年「萩焼の史料」『山口県文書館研究紀要』第41号 2014など
【関連リンク】
おもしろ山口学「江姫の時代の毛利家-長府藩祖 毛利秀元-」

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