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2014年3月28日号 vol.269
おもしろ山口学/2人の長州人。京都復興に尽力した槇村正直と「鉄道の父」井上勝/写真:槇村正直に宛てた「井上勝書状」(山口市歴史民俗資料館蔵)

写真:槇村正直に宛てた「井上勝書状」(山口市歴史民俗資料館蔵)

山口市に寄贈された、明治時代の1通の手紙を通して、2人の長州人を紹介します。

山口お宝展参加企画展「大隅健一のまなざし 山口の書画と工芸」
井上勝(いのうえ まさる)が槇村正直(まきむら まさなお)に宛てた手紙をはじめ、維新の志士らの書跡や、大内(おおうち)氏時代の和歌短冊など、山口市に寄贈された故大隅健一(おおすみ けんいち)氏のコレクションを展示中。
5月6日(火曜日・振り替え休日)まで ※月曜日休館、ただし5月5日は開館
山口市歴史民俗資料館

明治時代、長州(※1)生まれのさまざまな人物が日本の近代化に尽力しました。そうした1人に京都府第2代知事・槇村正直(まきむら まさなお)(※2)がいます。その槇村に宛てて、後に「鉄道の父」となる井上勝(いのうえ まさる)が書いた手紙を通して、2人の歩みが交わるころまでを紹介します。

槇村は天保5(1834)年、大田村(現在の美祢市美東町)で私塾を開いていた在郷住宅士(※3)の家に生まれました。萩藩士の養子となり、藩に仕えると、仕事ぶりが認められ、藩の権力機構に末端ながら関わるようになります。やがて「御密用聞次役(おみつようききつぎやく)(※4)」などとして敏腕を振るい、萩藩の中枢を担う広沢実臣(ひろさわ さねおみ)(※5)らに高く評価されるようになったようです(※6)

明治維新後、槇村は朝廷に召し出されて徴士(※7)に選抜されます。同時に京都府へも出仕を命じられ、権大参事(ごんのだいさんじ。現在の副知事)となります。京都には当時、外国を忌み嫌う人や東京遷都に抗議する人が多く、府政は困難な状況でした。槇村は東京遷都によって人々が流出した京都復興のため、府政の実質的なかじ取り役として、京都博覧会(※8)の開催、旧萩藩邸の跡地(※9)への勧業場(※10)の設置、全国初の小学校の創設など、京都の有力商人らと殖産興業や文明開化を進めます。人々の意識を変えるため率先して外国の文化を取り入れ、シルクハットにえんび服、口ひげ、あごひげで白馬に乗り、「まげを切って断髪にしろ」と言って京都を回ったともいわれています。

殖産興業のため北陸と関西を結ぶ鉄道をいち早く夢見た槇村

その槇村に手紙を送った井上は、萩藩が文久3 (1863)年にイギリスへ密留学させた5人の若者、いわゆる「長州ファイブ(※11)」の一人でした。井上はロンドン大学で学び、鉄道の現場も体験し、明治元(1868)年に帰国。明治政府に出仕し、明治4(1871)年には鉱山頭(こうざんのかみ)兼鉄道頭(※12)となり、鉄道建設に関わるようになりました。

井上が槇村に宛てた手紙には、2月28日の日付があります。「品川・横浜間の鉄道の開業が数日を待たず、とにかく忙しい」「大阪・京都間の予算の見積もりが出ました」と記され、日本初の鉄道が開業(※13)した明治5(1872)年の手紙と考えられます。

手紙の2年前の明治3(1870)年、政府は東京・横浜間に続き、大阪・神戸間の線路測量に着手していました。その明治3年ごろから槇村は北陸の敦賀・京都・大阪間も結んで物資の交流を盛んにしたいと政府に度々建言しており、手紙はその建言との関連をうかがわせます。槇村の建言は政府に受け入れられ、手紙の前年の明治4(1871)年、測量が決まります。

しかし、槇村は政府には財政的余裕がないと見て、同年、京都の有力商人らに次のように呼び掛け、民間の会社を創設させます。「京都は年を追って衰微しているが、大阪・敦賀間に鉄道を開けば、その中間の停留地となる。運輸の便を起こせば必ず欠かせないものとなる。官民で大事業を成就しよう」。政府はその会社から資金の供給を受けることを決め、槇村は明治5(1872)年1月、政府に着工を促します。

間もなく井上は手紙にある通り、大阪・京都間の建設予算の見積もりを政府に提出します。ところが、それは会社側の見積もりをはるかに超える数字でした。槇村は打開策を考えますが、不況もあり、明治6(1873)年には、政府が敦賀線の延期(※14)と、政府資金による京都・神戸間の建設を決定します。それから4年を経て槇村が府知事となった翌月の明治10(1877)年2月5日、京都・神戸間の開業式が華々しく挙行されます。京都の復興には鉄道が必須と考えた槇村の夢の一部が、その日、かなったのでした。

1通の手紙は長州の枠を越え、新たな時代へ、果敢に歩んだ先人の姿を伝えてくれます。

槇村正直写真(京都府立総合資料館蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

槇村正直写真(京都府立総合資料館蔵)
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井上勝写真(萩博物館提供)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

井上勝写真(萩博物館提供)
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国の登録有形文化財のJR萩駅舎の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

国の登録有形文化財のJR萩駅舎。大正14(1925)年完成。駅舎内の展示館では、井上勝の資料などを展示
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  • ※1 現在の山口県。本文※1へ戻る
  • ※2 名を「まさただ」と読む説もある。本文※2へ戻る
  • ※3 藩主からの禄(ろく)はなく、地方に居住する武士。本文※3へ戻る
  • ※4 萩藩内を巡り、公安警察的業務・情報収集などを行う役。本文※4へ戻る
  • ※5 明治政府から長州出身としては木戸孝允(きど たかよし)に次ぐ維新の功労者として高く評価された。本文※5へ戻る
  • ※6 第二次長州征討(幕長戦争)時、戦争下の一般の人々の動向調査、幕府軍側船舶の取り締まりなどを行った。本文※6へ戻る
  • ※7 朝廷・政府に召し出された、学徳のある立派な人。本文※7へ戻る
  • ※8 明治4(1871)年に初開催。翌年から恒例となり、新技術導入などに大きな役割を果たした。本文※8へ戻る
  • ※9 現在の京都ホテルオークラの地。本文※9へ戻る
  • ※10 産業・貿易の奨励、物産の陳列、資金の融通などを行った。本文※10へ戻る
  • ※11 幕末、長州からイギリスへ留学した伊藤博文(いとう ひろぶみ)、井上馨(いのうえ かおる)、井上勝、遠藤謹助(えんどう きんすけ)、山尾庸三(やまお ようぞう)。帰国後、さまざまな分野で活躍。本文※11へ戻る
  • ※12 鉄道頭は政府の鉄道部門の責任者。井上は明治5(1872)年、鉄道頭専任となる。本文※12へ戻る
  • ※13 新橋・横浜間の開業が、日本の鉄道の開業とされる。本文※13へ戻る
  • ※14 井上は敦賀線建設を主張し続け、明治17(1884)年、長浜・金ケ崎(旧敦賀港)間を結ぶ敦賀線を全通させた。本文※14へ戻る
【参考文献】
京都市市政史編さん委員会編『京都市政史 第1巻 市政の形成』2009
日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史』通史 1975、同第1巻 1969、同第2巻 1970
布引敏雄『槇村正直 その長州藩時代』2011
三崎重雄『鉄道の父 井上勝』1942など

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