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2014年3月14日号 vol.268
おもしろ山口学/幕府軍VS長州。勝利への始まりは、異国軍の散兵戦術にあった/写真:ミニエー銃(下関市立長府博物館蔵)

写真:ミニエー銃(下関市立長府博物館蔵)

長州を勝利に導いた幕末の軍事改革について紹介します。

今年は元治元(1864)年の禁門の変(※1)、幕府からの長州征討令(第一次)など、幕末、萩藩(※2)にとって大事件が相次ぎ、窮地に陥った年から150年に当たります。しかし、その年は萩藩が、西洋兵学に精通した大村益次郎(おおむら ますじろう)(※3)を山口の「兵学校(※4)」の教授役に命じ、近代的軍事力の創出へ、大きな一歩を踏み出した年でもありました。

近代的軍事力の創出は、ハード(軍備)・ソフト(戦略)の両面から進められました。ハード面については当時、幕府などが洋式銃として旧式のゲベール銃を導入していたのに対し、萩藩はミニエー銃などの新式銃をいち早く導入していきます。ゲベール銃は命中精度が低く、横一列に並んだ兵士が一斉に撃たなければなりませんでした。一方のミニエー銃とは、銃身の内部にらせん状の溝を刻んだライフル銃で、ドングリ型の弾丸が回転しながら飛ぶため、命中精度が高いのが特徴です。

ソフト面の改革として、益次郎は洋式陸軍士官の速成教育の総責任を負い、「散兵戦術」を兵学校に入学した藩士らに教え込みます。散兵戦術とは、兵士を密集させず、散開させて戦わせる戦術です。これは命中精度の高い新式銃を入手できたからこそ可能になった戦術で、少数の兵で多数の兵に立ち向かうことができました。また、訓練には『散兵教練書(※5)』を用い、散らばって戦う兵士に士官からの命令が届かなくとも、自ら工夫して作戦を遂行できるよう、自発性・独立心を養うことを重視した教育が行われました。

坂本龍馬も注目していた散兵戦術

やがて萩藩では一時、幕府に従う保守派が政権を握ったものの、慶応元(1865)年に「武備恭順(※6)」へ一転、翌年には第二次長州征討(幕長戦争)(※7)に突入します。そして長州(※8)軍は少ない兵力で実質的に征長軍に勝利します。その戦いにおける長州軍の散兵戦術が、いかに印象的だったかは、「敵軍(※9)は地理に詳しく、散兵し、射撃時に生じる白煙で目を付けられて撃たれるのを避けるため、縦横に移動し、樹木や山陰から撃ってくる」(※10)といった征長軍側のさまざまな記録からうかがえます。

ところで萩藩は、すでに文久3(1863)年にその散兵戦術による攻撃を体験していました。それは関門海峡で攘夷(じょうい)(※11)戦争を決行し、その報復攻撃をフランスやイギリスの軍艦から受けて下関に上陸された際のことです。その時に見た散兵戦術について萩藩のある人物は「異国人は山へ登って散兵し、物陰からうかがうようにして撃ち、少人数ではとても防御できない」と勝負にならない状況を記しています(※12)

また、慶応2(1866)年の幕長戦争には、坂本龍馬(さかもと りょうま)も長州軍に加わっていました。龍馬が、その時のことを記した手紙に「先年、英国人が長州で戦った際、船より上陸すると、ばらばらと開き、4間(約7.2メートル)に一人ばかり、立ち並んだそうだ」とあり、やはり攘夷戦争での異国軍の散兵戦術に注目していたことが分かります。

幕長戦争で勝利した長州。勝因の一つは、欧米諸国の脅威を実感して危機感を強めていた長州の人々に、益次郎が新式銃を生かした近代的な戦術を習熟させたことにあったのです。

四境戦争瓦版(小倉口)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「四境戦争瓦版(小倉口)」(下関市立長府博物館蔵)
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兵家須知戦闘術門の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

『兵家須知(へいかすち)戦闘術門』(下関市立長府博物館蔵)。オランダの兵学者による戦術書を益次郎が翻訳したもの
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坂本龍馬画像の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「坂本龍馬画像」(三吉家蔵/下関市立長府博物館寄託)。龍馬は幕長戦争の小倉口での戦いに軍艦を率いて長州軍に加わった
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  • ※1 前年の8月18日の政変で、京都での地位を失った萩藩が、再起を図り、鹿児島藩の兵らと京都御所で戦って敗れた事件。本文※1へ戻る
  • ※2 萩藩主は幕末、山口に拠点を移したため、山口藩ともいう。本文※2へ戻る
  • ※3 鋳銭司(すぜんじ)村(現在の山口市鋳銭司)で町医者の子として生まれ、軍政家となった。本文※3へ戻る
  • ※4 山口にあった私学「山口講堂(後に山口講習堂)」を前身とする藩校「山口明倫館(めいりんかん)」を改称したもの。山口講習堂には、吉田松陰(よしだ しょういん)の妹婿・楫取素彦(かとり もとひこ)が一時期勤務していた。本文※4へ戻る
  • ※5 散兵戦術を訓練するために用いられた本。自発性・独立心の養成を強調した趣旨や、銃の使用法、どう動くべきかなどが記されている。本文※5へ戻る
  • ※6 表向きは幕府に従いながら、軍備を増強する方針。本文※6へ戻る
  • ※7 長州軍と幕府軍などとの戦い。山口県では、4つの国境で戦ったことから「四境(しきょう)戦争」ともいう。本文※7へ戻る
  • ※8 萩藩やその支藩を含む。現在の山口県。本文※8へ戻る
  • ※9 長州軍。本文※9へ戻る
  • ※10 小倉口での戦いについての征長軍側の熊本藩の記録による。本文※10へ戻る
  • ※11 他国を排撃する思想。本文※11へ戻る
  • ※12 江戸時代、厚狭(あさ。現在の山陽小野田市)を領地とした厚狭毛利(もうり)家の『御用所日記』による。本文※12へ戻る
【参考文献】
小川亜弥子『幕末期長州藩洋学史の研究』1998
三宅紹宣「幕長戦争小倉口戦争の展開過程」『山口県地方史研究』100号 2008など

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