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2014年2月28日号 vol.267
おもしろ山口学/萩藩と相撲。落語にもなった横綱「阿武松」と謎の巨漢力士「龍門」/写真:歌川国貞(うたがわ くにさだ)「稲妻 阿武松 木村庄之助(きむら しょうのすけ)」(山口県立萩美術館・浦上記念館 所蔵)。左が阿武松、対戦相手は稲妻

歌川国貞(うたがわ くにさだ)「稲妻 阿武松 木村庄之助(きむら しょうのすけ)」
(山口県立萩美術館・浦上記念館 所蔵)。
左が阿武松、対戦相手は稲妻

相撲史で語り継がれてきた萩藩のお抱え力士と周防大島出身の力士を紹介します。

月間小展示「巨漢 龍門好五郎」
龍門の手形や江戸時代の史料などを展示します。
3月1日(土曜日)から30日(日曜日)まで ※月曜日、3月28日(金曜日)は休館
山口県文書館

東京・大阪・名古屋・福岡で年6回興行されている現在の「大相撲」は、江戸時代に寺社が造営・修理費用を賄うために興行した「勧進相撲」が発展したものです。勧進相撲は18世紀末には大坂・京都・江戸で興行する体制が整い、それらの場所で優れた成績を挙げた力士を、諸藩が藩の名誉を高めることなどを目的として召し抱えるようになりました。

萩藩は優れた力士を何人も抱えた藩でした。中でも最も有名なのは、落語にもなった人気力士「阿武松緑之助(おうのまつ みどりのすけ)」です(※1)。阿武松は元の四股名(しこな)を「小柳(こやなぎ)」といい、毛利斉熙(もうり なりひろ)(※2)の命で萩の「阿武の松原(※3)」にちなんだ名に改め、文政11(1828)年には、前の代の横綱が引退してから31年ぶりの横綱(※4)となりました。

阿武松はのんびりとした人柄で、慎重な相撲で知られ、立ち合いに「待った」の多い力士でした。あるとき、ライバルの横綱「稲妻雷五郎(いなづま らいごろう)」との上覧相撲(※5)での取組で、再三「待った」をした末、勝利。その勝ち方は、さすがにいい評判とはならず、江戸の人々の間で「待ってくれ」と言うと「阿武松でもあるまいし」と応じるのが流行語になったほどでした(※6)

また、阿武松の人物像がうかがえる話として、他にも次のような逸話が伝わっています。江戸の萩藩の屋敷を訪ねた阿武松が、毛利斉熙と相撲を取ったところ、耳元で「百両、百両」とささやかれ、勝ちを譲ります。ところが、何日待っても、褒美が出ません。しびれを切らした阿武松が再び出掛けて行き、もじもじと切り出すと、毛利斉熙は「あれか。あれが余の手じゃ」と笑って答えた、というのです(※7)

阿武松と同時代の力士「龍門」の身長は、なんと約226センチメートル?

阿武松の名がある同じ江戸の番付に載った力士に、現在の山口県周防大島町出身、一説には身長が7尺4 寸5分(約226センチメートル)(※8)とされる巨漢力士「龍門好五郎(りゅうもん よしごろう)(※9)」がいます。

龍門は江戸に上る前の文政10(1827)年、伊予国大洲(いよのくに おおず。現在の愛媛県大洲市)の勧進相撲に姿を現しています。そして文政11(1828)年には、江戸の勧進相撲の番付に張り出されて土俵入りだけしています(※10)。龍門について江戸の戯作者(げさくしゃ)は「龍門は 並ぶかたなき男とて 龍とも登る 鯉(こい)の若者」と歌を詠んだといい、江戸の浮世絵師・歌川国安(うたがわ くにやす)は鯉の滝登りをあしらった化粧まわし姿で錦絵に描き、龍門の登場は話題を呼んだことが分かります。その年、京都・大坂の場所にも登場して土俵入りをつとめていますが、この3場所のみで姿を消しています。それらの番付では伊予の力士となっていることから、江戸で相撲好きの萩藩主の目に留まり、出身地の長州(現在の山口県)へ連れ帰られたのではないかと考えられています。

その後の龍門については、萩藩の記録(※11)に次のようなことが記されています。天保2(1831)年正月、周防大島に帰っていた龍門に、身なりを整えて萩見物に来るよう、藩からお達しがあり、上々様(※12)のご上覧を得た。龍門は痛めていた足を、萩からの帰りに山口で湯治したが、治らなかった。その後、藩から江戸行きを命じられ、準備して待っていたが、江戸行きは延期に。そのうちに病気となり、天保4(1833)年に亡くなった…と。

龍になるか、と注目されながら不意に消えた龍門。しかし、ふるさとでは忘れられることなく、地元の人々によって墓は今も守られ、近くには手形碑も建てられ、しのばれ続けています。

龍門の草履と箸と茶わんの写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

龍門の草履と箸と茶わん(大島歴史民俗資料館蔵)
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龍門の墓の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

周防大島町家房(かぼう)にある龍門の墓
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手形碑の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

龍門の墓の近くにある手形碑
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  • ※1 阿武松は能登国(のとのくに。現在の石川県)出身。他に、やはり萩の海岸の名にちなむ「越ケ浜(こしがはま)」らがいる。本文※1へ戻る
  • ※2 小柳(後の阿武松)を抱えたときは萩藩主。阿武松と改名させたときは隠居していた。本文※2へ戻る
  • ※3 かつては萩付近の海岸を指した。本文※3へ戻る
  • ※4 横綱とは当時、横綱という「しめ縄」を腰に締めて土俵入りを行う資格のこととされ、吉田司家(つかさけ)が免許を与えた。なお、当時、横綱は番付上の地位ではなかったので、阿武松は番付上では、当時の最高地位の大関。本文※4へ戻る
  • ※5 天皇や将軍などの前で行われる相撲。本文※5へ戻る
  • ※6 平戸藩主が見聞などを記した随筆『甲子夜話(かっしやわ)』による。本文※6へ戻る
  • ※7 福田虎助『大名相撲』1938による。本文※7へ戻る
  • ※8 萩藩の記録では、7尺5寸。本文※8へ戻る
  • ※9 竜門と表記されることもある。本文※9へ戻る
  • ※10 当時、勧進相撲を盛り上げるため、見栄えの良さから選ばれ、土俵入りだけ行った「看板力士」がおり、通常の番付の欄外に張り出された。龍門もその一人と考えられている。本文※10へ戻る
  • ※11 「大島宰判(さいばん)本控」(山口県文書館蔵)。本文※11へ戻る
  • ※12 おそらく藩主などのこと。本文※12へ戻る
【参考文献】
大島町誌編纂委員会『周防大島町誌』1959
竹森章「巨人力士 竜門好五郎の生地を訪ねて」『相撲』1971
新田一郎『相撲の歴史』2010
御薗生翁甫「防長史料」(山口県文書館蔵)など

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