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2014年2月14日号 vol.266
おもしろ山口学/室町幕府の成立を支えた長門国の名族・厚東氏の盛衰/写真:正法寺の銅鐘(右)と、そこに刻まれた厚東氏の一族と考えられる長門守武貞(ながとのかみ たけさだ)」の名(左)

写真:正法寺の銅鐘(右)と、そこに刻まれた厚東氏の一族と

考えられる長門守武貞(ながとのかみ たけさだ)」の名(左)

第2回 本拠を追われ、そして再び…
大内(おおうち)氏との200年の因縁を秘めた、厚東(ことう)氏の歴史をたどります。

南北朝時代(※1)、北朝方に属し、長門国(ながとのくに。現在の山口県西部・北部)の守護・厚東氏の最盛期を築いた、厚東武実(たけざね)。その死去から10年後の1358年、厚東氏の一族は、周防国(すおうのくに。現在の山口県東部)の守護・大内弘世(ひろよ)(※2)によって、本拠の厚東(現在の宇部市)から追われます。そして翌1359年には一族が再起を図って挙兵したものの敗れ(※3)、九州へ逃れた、とされています。

しかし、その後間もなく、厚東氏が一時的に勢力を回復していた時期がありました。正平18(1363)年に厚東氏の一族と考えられる人物が厚狭(あさ。現在の山陽小野田市)の「正法寺(しょうぼうじ)」に銅鐘を寄進し、正平23(1368)年には最後の当主・厚東義武(よしたけ)が本拠地・棚井(現在の宇部市棚井)の「恒石(つねいし)八幡宮」に土地を与えています。これらのことから厚東氏は長門国の一部で一時的に勢力を回復していたと考えられます。しかも、この時期、厚東氏は南朝方の年号「正平」を用い始めています。このころ、宿敵の大内弘世が南朝方から北朝方へ転じており、それに対抗して厚東氏は逆に南朝方の陣営へ転じて戦い続けていたことを、その年号は物語ります。

ところが正平23(1368)年に出した文書を最後に、厚東氏はいつしか歴史の表舞台から姿を消します。一方で厚東氏に代わり、長門国も完全に掌握した大内氏は西国一の大名となっていきました。

大内氏VS毛利氏、その陰に謎の厚東氏

それから200年間にわたる大内氏の栄華が陰り始めた16世紀半ば、戦国武将の毛利元就(もうり もとなり)・隆元(たかもと)父子(※4)が書いた手紙(※5)に、宛名として「厚東弾正忠(だんじょうちゅう)」という謎の人物(※6)が、不意に現れます。

その手紙が書かれた時期は、大内氏の傘下にいた毛利氏が、大内氏やその重臣・陶(すえ)氏らとの関係を断とうと決意してから、その戦いを終えるまでの間と推測されます。手紙からは、毛利氏が、厚東弾正忠という人物を、自分たちの味方に引き入れようと工作していたことが分かります(※7)。さらに毛利氏はその手紙で、軍事行動を起こす日までも、厚東弾正忠に明かしていました。当時の毛利氏にとって、大内氏との戦いは命運を賭けたものでした。このころ、毛利氏は大内氏を宿敵とする他の武将にも挙兵を促しており、200年の積年の思いがあると見た厚東弾正忠の所在をつかみ、味方を増やそうとしたのかもしれません。

その戦いで厚東弾正忠がどうしたかは分かっていませんが、かつて厚東氏を倒した大内氏は、その後、毛利氏によって滅ぼされました。

歴史の表舞台から消えて、永い歳月を経た今も、長門国の名族・厚東氏の名は地名や駅名、学校の名前などに残り、山口県の風土の中で脈々と生き続けています。

厚東氏墓所の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

宇部市棚井にある浄名寺(じょうみょうじ)の厚東氏墓所
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恒石八幡宮の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

恒石八幡宮。かつて大内弘世が造った妙見社(みょうけんしゃ)や厚東武実を祭る社もあったが、今はない
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棚井村地下図の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

江戸時代の「棚井村地下図(じげず)」(山口県文書館蔵)。赤い線が道、青い線が水路や川で、現在もそれらは現地にほぼ残る。厚東氏墓所や妙見社なども描かれている
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  • ※1 朝廷が、後醍醐(ごだいご)天皇が吉野に移ったことに始まる南朝と、足利尊氏(あしかが たかうじ)が擁立した天皇に始まる北朝とに分裂した時代。本文※1へ戻る
  • ※2 周防国を統一して守護となった人物。北朝方から南朝方へ、そして1363年に北朝方へ転じた。本文※2へ戻る
  • ※3 下関市長府の四王司(しおうじ)山で戦ったとされる。本文※3へ戻る
  • ※4 安芸国(あきのくに。現在の広島県西部)の国人領主だった。本文※4へ戻る
  • ※5 近年、手紙の原本が東京大学史料編纂(へんさん)所にあることが分かった。写しは山口県文書館の「三卿古文書纂補遺」の中にある。本文※5へ戻る
  • ※6 どこにいた、どんな人物かは分かっていない。本文※6へ戻る
  • ※7 手紙には、大内氏・陶氏に対抗して戦った津和野(つわの。現在の島根県津和野町)の吉見正頼(よしみ まさより)の名も出てくる。本文※7へ戻る
【参考文献】
秋山伸隆「全国 戦国大名の新事実・新常識/毛利家」『歴史読本』4月号 2001
山口県地方史学会『長門国守護厚東氏発給文書』2014
山口県編『山口県史 通史編 中世』2012など

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