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2014年1月24日号 vol.265
おもしろ山口学/室町幕府の成立を支えた長門国の名族・厚東氏の盛衰/写真:厚東武実画像(東隆寺蔵。宇部市指定文化財)(左)と、棚井から望む、厚東氏の山城があった霜降山(しもふりやま)(右)

写真:厚東武実画像(東隆寺蔵。宇部市指定文化財)(左)と、
棚井から望む、厚東氏の山城があった霜降山(しもふりやま)(右)

第1回 乱世の中で最盛期を築いた厚東武実
室町幕府の成立に大きな功績を挙げた厚東(ことう)氏を紹介します。

14世紀、長門国(ながとのくに。現在の山口県西部・北部)の守護として活躍した厚東氏。ルーツは物部(もののべ)氏(※1)とされ、厚狭(あさ)郡(※2)東部に定住したことから厚東と名乗るようになり、その最盛期を築いたのが厚東武実(たけざね)でした。

鎌倉幕府を討つ動きが西国で活発化した元弘3(1333)年、武実は初め幕府方として従軍しました。しかし、蒙古(もうこ)襲来で警固の負担が増えた長門国にあって、討幕を呼び掛ける後醍醐(ごだいご)天皇(※3)方へ、いち早く転じ、幕府滅亡後、天皇による「建武の新政」が始まると、歴代の厚東氏で初めて長門国守護に任じられました。

建武2(1335)年、足利尊氏(あしかが たかうじ)が、独裁政権を展開する天皇に反旗を翻します。武実は足利方に付き、翌年、500隻もの兵船を大内(おおうち)氏(※4)と率いて兵庫(現在の兵庫県神戸市)へ。武実は長門国以外の武将も配下に置き、畿内で戦いました。

しかし、足利方は敗れ、武実らの船で西へ。その際の軍議で、武実はあらためて足利方から守護に任じられます。九州で態勢を立て直した足利方はしばらく長門国府中(現在の下関市)に留まり、その間に武実らは長門国で兵船を調達します。武実は、めでたい先例にならい、壇ノ浦の戦い(※5)で勝った源義経(みなもと よしつね)を乗せた船頭(※6)の子孫の船を、尊氏に充て、自らも軍を率い、東上して戦いました。やがて足利方は京都を制圧し、室町幕府を成立させます。激動の世にあって、足利幕府の成立を支えた武実は、冷静に先を読み、一族の命運を切り開いていった武将でした。

高僧を招いて開いた東隆寺(とうりゅうじ)と、出版事業への支援

武実は武勇以外にも足跡を残しました。その一つが長門国で幾つもの寺社を創建するなどしたことです。居館を置いた棚井(たない。現在の宇部市棚井)には、高僧・南嶺子越(なんれい しえつ)(※7)を招いて禅寺・東隆寺(※8)を開きました。子越は、後醍醐天皇や尊氏が尊敬した高僧・夢窓疎石(むそう そせき)(※9)が、西国から来た人に必ず「長門長老に礼して来たか」と尋ねたという逸話(※10)を持つ高僧です。

また、京都・鎌倉の有名寺院から地方の寺院へ広がり始めたばかりの出版事業を、いち早く支援したことも特筆されます。武実が支援したのは、兵庫の禅寺が出版した、子越の師で著名な高僧の語録(※11)です。その出版は教えを広める上で役立つ一方、堂・塔の建立ほど目立たず、寺院にとって資金集めは骨が折れるものでした。そうした中での武実の支援は、武将でありつつ自らも仏教に帰依していた教養の高さを物語ります。

貞和4(1348)年に武実が死去し、14世紀後半には厚東氏は大内氏によって追われ、歴史の表舞台から姿を消しました。しかし、武実が高僧を招いて開いた寺は厚東氏ゆかりの寺として歴史を重ね、また武実が出版を支援した子越の師の語録は、出版が地方へ広がり始めた時期の先駆けとして、出版文化の歴史の中で貴重な存在であり続けています。先を見通す目を持っていた武将・武実。盛者必衰の乱世に生きたからこそ、心は不変のものを見つめていたのかもしれません。

厚東崇西(武実)遵行状(忌宮神社蔵)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

厚東崇西(武実)遵行状(忌宮神社蔵)。嘉暦元(1326)年。武実が出した文書の原本としては現在最古のもの。『長門国守護厚東氏発給文書』より
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東隆寺にある厚東氏墓所の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

東隆寺にある厚東氏墓所。手前は南嶺和尚墓
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南嶺和尚道行碑の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

南嶺和尚道行碑。和尚をたたえる碑文の内容は1454年、中国で書かれ、碑は18世紀に萩藩主によって建てられた
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  • ※1 日本の古代豪族。蘇我(そが)氏との戦いに敗れ、没落した。本文※1へ戻る
  • ※2 古代からの郡名。本文※2へ戻る
  • ※3 討幕の計画に失敗して隠岐島(おきのしま)に流されるが脱出し、建武新政府を樹立。本文※3へ戻る
  • ※4 周防国(すおうのくに。現在の山口県東部)の守護。後に西国一の大名となった。本文※4へ戻る
  • ※5 関門海峡で行われた源平最後の合戦。本文※5へ戻る
  • ※6 串崎(現在の下関市)の船頭。本文※6へ戻る
  • ※7 後に、日本最初の禅寺である博多の聖福寺(しょうふくじ)の住持をつとめた。本文※7へ戻る
  • ※8 幕府から官寺の「諸山」に位置付けられ、厚東氏滅亡後は大内氏に保護された。本文※8へ戻る
  • ※9 後醍醐天皇の冥福を祈るため京都・天龍寺(てんりゅうじ)を建立したことでも有名。本文※9へ戻る
  • ※10 東隆寺の南嶺和尚道行(どうぎょう)碑による。本文※10へ戻る
  • ※11 文和元(1352)年、福厳寺(ふくごんじ)刊『仏燈国師(ぶっとうこくし)語録』。その版木の書風は優れ、南北朝極初期の特色を持つ。仏燈国師は中国に留学後、京都・南禅寺(なんぜんじ)などの住持をつとめた。本文※11へ戻る
【参考文献】
伊藤幸司「やまぐちのなかのアジア」『大学的やまぐちガイド-「歴史と文化」の新視点』2011
沖金吾「長門国守護厚東氏とその本拠地棚井」『山口県地方史研究』88 2002
川瀬一馬『五山版の研究』上 1970
川副博『長門国守護厚東氏の研究及び史料』1977
山口県地方史学会『長門国守護厚東氏発給文書』2014
山口県編『山口県史 通史編 中世』2012など

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