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2013年12月13日号 vol.263
おもしろ山口学/山中鹿介と吉川元春。戦国武将らの思いが眠る山口県/写真:吉川史料館の外観(左)と吉川元春像 桃山時代(吉川史料館蔵)(右)

写真:吉川史料館の外観(左)と吉川元春像 桃山時代(吉川史料館蔵)(右)

尼子(あまこ)氏の忠臣・山中鹿介(やまなか しかのすけ)と、山口県との意外なつながりを紹介します。

出雲国(いずものくに)(※1)を拠点とした戦国大名・尼子氏。その尼子氏と山口県との間にさまざまなつながりがあることは、あまり知られていません。その1つは尼子再興のため何度も毛利(もうり)氏(※2)と戦い続けた山中鹿介(※3)の絶筆や兜(かぶと)が、敵方だった吉川(きっかわ)氏(※4)の宝として、時を越え、岩国で秘蔵されてきたことです。その遺品は吉川史料館で12月23日(月曜日・祝日)まで開催中の「上月城(こうづきじょう)と鳥取城の戦い」展で見ることができます。

尼子氏が長年敵対してきた毛利氏に降伏したのは、永禄9(1566)年のこと。当主の尼子義久(よしひさ)(※5)らは毛利氏の拠点・安芸国に幽閉されました。ところが3年後の永禄12(1569)年、旧臣の鹿介らが、尼子氏の血を引くという勝久(かつひさ)(※6)を擁し、毛利氏に抵抗して立ち上がります(※7)。鹿介ら尼子再興軍は各地を転戦。その果てに織田信長(おだ のぶなが)と結び、天正5(1577)年、信長の家臣・羽柴秀吉(はしば ひでよし)が攻略した播磨国(はりまのくに)(※8)の上月城に入りました。

鹿介を哀れみ、遺品を宝とした吉川氏、奈古(なご)・山口へ移った尼子氏

しかし、再興軍がこもる上月城は天正6(1578)年4月、吉川元春(もとはる)(※9)ら毛利方の大軍に包囲されます。包囲は2カ月以上続き、再興軍は食糧が尽き、頼みの秀吉に退却され孤立無援に陥ります。鹿介は使者を元春らの元へ送り、尼子勝久の助命を懇願します。願いはかなわず、7月、勝久は自刃。勝久の命と引き換えに城兵全員の助命を元春らから保証され、降伏した鹿介は、家臣に次のような手紙を与えて別れます。「永年の苦労と忠義は少しも忘れはしない。だからもうどこへでも奉公してよい」。鹿介も命を助けられますが、毛利氏によって護送中に不意を打たれて殺害されます。

その鹿介の絶筆となった先の手紙と兜を吉川氏はなぜ秘蔵してきたのでしょうか。鹿介は何度も吉川氏と戦い、すでに名をはせていました。吉川元春らは、ついに投降を決心した鹿介に、毛利氏の家臣として周防国(すおうのくに。現在の山口県東部)に3千石の所領を与える約束をしたといいます(※10)。勇将だった元春の長男も、敵として戦ってきた鹿介を「天下無双」と評していました(※11)。しかし、元春は毛利氏の命令とされる鹿介殺害の計画を知らず、殺害を聞いて哀れみ、「尼子家の忠臣なれば、この品永く秘蔵すべし」と、鹿介が投降の際に持っていた兜を家宝としたのだといいます(※12)

9年に及んだ戦国大名・尼子再興の夢は鹿介の死でついえました。一方、幽閉されていた尼子義久は、幽閉を解かれた後、慶長年間(1596-1615)、長門国(ながとのくに。現在の山口県北部・西部)奈古(現在の阿武町)に移ります。さらにその後、義久の跡を継いだ一族は毛利氏家臣となって家を存続させます(※13)。鹿介だけでなく、その主家も時を越え、山口県とつながっていったのです。尼子最後の戦国大名・義久の墓は奈古にあり、今も山陰の地を見つめ続けています。

鉄錆十二間筋兜(山中鹿介所用)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

鉄錆十二間筋兜(山中鹿介所用)。兜と共に、修験者の頭巾状の物も鹿介は所持。その中には愛染明王・大黒天など5種の護符が収められていた(吉川史料館蔵)
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山中鹿介書状の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

山中鹿介書状。鹿介の絶筆と伝えられる。国の重要文化財(吉川史料館蔵)
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阿武町の大覚寺にある尼子義久の墓の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

阿武町の大覚寺にある尼子義久の墓。慶長15(1610)年に死去
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  • ※1 現在の島根県東部。本文※1へ戻る
  • ※2 安芸国(あきのくに。現在の広島県西部)を拠点とした戦国大名。本文※2へ戻る
  • ※3 実名・幸盛(ゆきもり)。「願わくは我に七難八苦を与え給え」と三日月に祈ったという逸話で知られる。本文※3へ戻る
  • ※4 江戸時代、岩国の領主・藩主となった。本文※4へ戻る
  • ※5 曽祖父が領国を拡大した経久(つねひさ)。父は晴久(はるひさ)。本文※5へ戻る
  • ※6 曽祖父は経久。祖父と父が晴久に殺され、京都で僧となっていた。本文※6へ戻る
  • ※7 そのとき毛利氏は北部九州で大友(おおとも)氏と交戦中。同年、大内(おおうち)氏再興を目指した大内輝弘(てるひろ)も挙兵した。本文※7へ戻る
  • ※8 現在の兵庫県南西部。本文※8へ戻る
  • ※9 毛利元就(もとなり)の次男。本文※9へ戻る
  • ※10 三卿伝(さんきょうでん)史料「御答書」による。また、元春らが約束した城兵全員の助命を、毛利氏は知らなかったとされる。本文※10へ戻る
  • ※11 元春の長男・元長(もとなが)が親しい僧に送った書状による。本文※11へ戻る
  • ※12 明治35(1902)年、吉川家がこの兜を天覧に差し出した由緒書による。本文※12へ戻る
  • ※13 後に平野村(現在の山口市平川)に移り、尼子の元の苗字・佐々木(ささき)に復した。本文※13へ戻る
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吉川史料館
【参考文献】
阿武町史編さん委員会編『阿武町史』上巻 1996
三卿伝編纂所編『毛利輝元卿伝』1982
瀬川秀雄『吉川元春』1944
島根県立古代出雲歴史博物館『戦国大名尼子氏の興亡』2012
吉川史料館「吉川史料館たより」第3号 2002、同 第34号 2009など

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