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2013年11月22日号 vol.262
おもしろ山口学/山あいの龍宮淵と海の龍宮城を結ぶ不思議な物語/写真:国道9号「龍宮橋」とJR山口線の鉄橋の間にある龍宮淵(雄淵)

写真:国道9号「龍宮橋」とJR山口線の鉄橋の間にある龍宮淵(雄淵)

紅葉の名所「長門峡(ちょうもんきょう)」近くの川をめぐる、ある武士の物語を紹介します。

源平最後の合戦「壇ノ浦の戦い」の際、安徳(あんとく)天皇は平家(へいけ)一門の祖母から「海の下にも都があります」と慰められて共に関門海峡に入水(じゅすい)したといいます。その海の下の都・龍宮城(りゅうぐうじょう)と山あいの川とを結ぶ物語が、県内には複数あります。その中の1つの舞台は現在の山口市阿東(あとう)の「龍宮淵(りゅうぐうぶち)」、別名・雄淵(おぶち)(※1)。主人公は、仁保庄(にほのしょう。現在の山口市仁保)を領有した武士(※2)。その話は古くからあり、『後太平記』(※3)には次のように記されています。

室町時代、仁保庄の三浦介元久(みうらのすけ もとひさ。げんきゅう)が鷹狩(たかがり)に行った。すると元久が大事にしていたタカが雄淵に飛び入り、戻ってこない。元久がタカを追って雄淵に入ると水が裂け、その間をタカが進んでいく。突然、水底(みなそこ)に龍宮城が現れ、中に入ると、安徳天皇や平家一門らがいた。タカを使って元久を招いたのは彼らだった(※4)。さまざまな不思議を見聞きした後、元久は不老の薬が入った箱をもらい、「この世界へ来た印として、子孫に永く伝える紋を与えましょう」と龍のうろこ(※5)を1つ背中に押し付けられた。そして勧められるまま、ワニの背に乗ると、あっという間に雄淵へ浮かび出た。

元久は1日のことと思っていたが、地上では100日が過ぎていた。死んだと思われ、その法要のさなかに帰ってきた元久は妻子らに大喜びで迎えられた。後に元久は仁保庄に寺を建てた。その寺を「元久寺(げんきゅうじ)」という―。

三浦介元久は実在した?今もある元久の「生き墓」

この元久は実在した人物なのではないかと考えられ、その人物として、少なくとも2人が挙げられます。元久寺は今も仁保にある源久寺(げんきゅうじ)のことで、寺の由来によれば、源久寺は三浦氏の先祖・平子重経(しげつね)によって鎌倉時代に創建されています。それからすると物語の元久にはまず、寺を開いた実在人物・重経が該当します。

一方で、『後太平記』の創作より前の戦国時代に記された源久寺の「平子氏歴代戒名譜」には、重経の子・重資(しげすけ)の箇所に「龍宮城に入る。帰ってきて仁保庄で逝去」とあります。それからいえば物語の元久には、実在人物として重資が該当します。

また、仁保と雄淵のある地とは、かつて鷹場山(たかばやま)(※6)と呼ばれた山を通って往来があったと考えられ、雄淵上流へ注ぐ川(※7)の近くには、元久の別館跡(※8)とも伝わる地があります。さらに、この物語は萩藩の記録(※9)にもあり、「元久の生き墓」として、次のようなことが記されています。「雄淵の上の険しい所にある。元久の家族らは溺死したと思い、ここに墳墓を築いたが、その後、帰ってきたため、元久の生き墓として伝わる」。今なお、その地には、元久の生き墓とされるものが存在し、物語は現実味を帯びてきます。

雄淵の底からは昔、龍宮で奏でるような琴の音が聞こえたという伝承もあります(※10)。心を惑わせる調べが、現実と異界とが交錯する不思議な物語を紡いだのかもしれません。

元久の生き墓の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

「元久の生き墓」と伝わり、経塚とも考えられている。龍宮淵(雄淵)の東、踏切を渡った阿武川沿い、こんもりした堤の上にある
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木造平子重経(沙弥西仁)坐像の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

国指定重要文化財「木造平子重経(沙弥西仁)坐像」。鎌倉時代の作。イギリスの大英博物館で開催された「鎌倉彫刻展」に出品展示されたことがある(源久寺蔵)
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平子氏歴代戒名譜の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

戦国時代に記された「平子氏歴代戒名譜」の一部。写真左の2段目「二代」のところに「龍宮城に入る。帰ってきて仁保庄で逝去」とある(写真右はその部分の拡大)(源久寺蔵)
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  • ※1 国道9号が阿武川(あぶがわ)をまたぐ龍宮橋の下にある。本文※1へ戻る
  • ※2 鎌倉時代に関東から仁保へ移った一族で、平子(たいらご)・仁保・三浦(みうら)と苗字(みょうじ)を変えた。平子氏は桓武(かんむ)平氏の系統。本文※2へ戻る
  • ※3 江戸時代前期に出版された軍記物語。本文※3へ戻る
  • ※4 『後太平記』では、海の神を祭る厳島(いつくしま)神社の領地が奪われ、大内(おおうち)氏にそれを取り戻す力を貸してもらうため、龍神が大内氏家臣の元久を招いた、とする。本文※4へ戻る
  • ※5 海と関わりの深い一族の体に、龍のうろこや尾があったという話は多い。本文※5へ戻る
  • ※6 現在の名は「高羽ケ岳(たかばがだけ)」。本文※6へ戻る
  • ※7 鑪川(たたらがわ)。なお、鉄を造るときの足踏みの送風装置や炉を「たたら」という。近年、川の近くに17世紀末まで稼働した銅の精錬所があったことが判明。本文※7へ戻る
  • ※8 鑪館跡とも伝わる。本文※8へ戻る
  • ※9 「風土注進案」。江戸時代後期に成立。本文※9へ戻る
  • ※10 その伝承によれば、琴の音は慶長年間(1596年から1615年まで)には止んだという。本文※10へ戻る
【参考文献】
金谷匡人「阿武川ものがたり」『山口の川No.7 阿武川』
田中恒一編『篠生村誌』1953
山口県文書館編『防長風土注進案』第21巻 奥阿武宰判1964
早稲田大学編輯部「後太平記上」『通俗日本全史』 1913
渡邊一雄「長門峡たたら製鉄遺跡」『地域文化研究』14 1999など

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