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2013年10月11日号 vol.259
おもしろ山口学/大内輝弘「大内氏再興」の夢/写真:輝弘が上陸したとされる秋穂湾

輝弘が上陸したとされる秋穂湾

第1回:「山口の正統の王」
大内(おおうち)氏滅亡後、毛利(もうり)氏の隙を突き、山口進攻を果たした大内輝弘(てるひろ)を紹介します。

山口を拠点とした西国一の大名・大内氏が、毛利元就(もとなり)(※1)によって滅ぼされた後、ごく短期間とはいえ、再興を果たしていたことは、あまり知られていません。一時的に再興を果たした人物は大内輝弘(※2)。輝弘は、大内氏当主の座を狙って失敗した父(※3)の亡命先・豊後国(ぶんごのくに)(※4)で大友(おおとも)氏(※5)に庇護(ひご)されて育ちました。大内氏歴代当主の血を引く輝弘は、大友氏から中国にいたキリスト教司祭に宛てた手紙に「私の元にいる正統の領主」、日本にいた宣教師から海外のイエズス会に宛てた手紙に「山口の正統の王」と記され、大内氏再興を望まれていました。

輝弘が挙兵する前年の永禄11(1568)年、中国地方西部を手中にしていた毛利氏は勢力拡大を目指し、北部九州へ軍を送って大友氏と戦っていました。元就自らも永禄12(1569)年5月、長府(※6)へ進み、大友氏攻略に本腰を入れます。

これに対抗して大友氏は、水軍を出動して周防国(すおうのくに)(※7)沿岸部を偵察・襲撃したり、大内氏の遺臣らの協力者と連絡を取るためか、密使を派遣したりして、手薄になった毛利氏の背後を脅かします。大友氏の動きに呼応し、沿岸部では、一揆も発生します。そのため毛利氏は海からの敵を見張るとりでを築き(※8)、また、一揆を鎮圧する兵を送るなどして警戒を強めます。

大内氏最後のプリンス、念願の父祖の地へ

そうした中、輝弘は10月11日、豊後国から大友氏の水軍の船で数千とされる軍勢と秋穂(あいお)(※9)などに上陸します。輝弘勢には大内氏の遺臣も加わっていました。秋穂に上陸した輝弘勢は山越え後、山口進攻を食い止めようとした毛利氏の家臣らと交戦となります。しかし、輝弘勢はそれを討ち破り、12日、山口に入り、代々の大内氏の居館があった地、築山(つきやま)に本陣を置きます。そして毛利氏の防長(ぼうちょう)(※10)支配の要の城・高嶺城(こうのみねじょう)(※11)を包囲します。

その時、毛利氏家来で、防長の支配組織の首班として高嶺城を守るべき立場の市川経好(いちかわ つねよし)は、北部九州での戦いのため山口を離れていました。城の留守を預かる経好の妻は、甲冑(かっちゅう)を着、長刀(なぎなた)を持って、兵らを指揮したといい、輝弘勢の攻撃に耐え続けます(※12)。石見国(いわみのくに)(※13)からは高嶺城の毛利勢に加勢する軍勢が駆け付けますが、宮野(みやの)(※14)で輝弘勢が迎え撃ち、高嶺城を孤立させます。

父祖の地を知らずに育った、大内氏の、いわば「プリンス」輝弘。海のかなたから思いをはせてきた歴代当主ゆかりの地に入り、高嶺城こそ落とせなかったものの、山口を占領し、「山口の王」となる夢に、ついに、わが手が届いたのでした。

秋穂道を通って山越えをした輝弘勢と毛利勢が戦った四十九カ原古戦場(山口市平野)の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

秋穂道を通って山越えをした輝弘勢と毛利勢が戦った四十九カ原古戦場(山口市平野)
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輝弘勢との戦で亡くなった毛利氏家臣の墓の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

輝弘勢との戦で亡くなった毛利氏家臣の墓。陶峠(すえがたお)の北側のふもとにある
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大内氏館跡から見た高嶺城跡の写真/写真をクリックで拡大。Escキーで戻ります

大内氏館跡から見た高嶺城跡
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  • ※1 安芸国(あきのくに。現在の広島県西部)を拠点とする戦国大名。本文※1へ戻る
  • ※2 重臣や元就らによるクーデターで自刃した大内義隆(よしたか)のいとこ。本文※2へ戻る
  • ※3 大内高弘(たかひろ)。義隆の父・義興(よしおき)の兄弟。本文※3へ戻る
  • ※4 現在の大分県の大部分。本文※4へ戻る
  • ※5 豊後国を拠点とする戦国大名。当主は大友義鎮(よししげ)。後の名は大友宗麟(そうりん)。本文※5へ戻る
  • ※6 現在の下関市長府。本文※6へ戻る
  • ※7 現在の山口県東部。本文※7へ戻る
  • ※8 山口市岡屋と考えられている。本文※8へ戻る
  • ※9 現在の山口市秋穂。本文※9へ戻る
  • ※10 周防国と長門国(ながとのくに)。現在の山口県。本文※10へ戻る
  • ※11 現在の県庁の西、鴻ノ峰(こうのみね)にあった城。本文※11へ戻る
  • ※12 毛利氏は、高嶺城を守り抜いた経好の妻へ深く感謝する手紙を授けた。なお、経好の妻の奮戦の様子は、江戸時代、萩藩士が元就のことをまとめた『温故私記』による。本文※12へ戻る
  • ※13 現在の島根県西部。本文※13へ戻る
  • ※14 現在の山口市宮野。本文※14へ戻る
【参考文献】
岡村好甫「大内輝弘の山口進攻事件とその歴史的評価」『山口県地方史研究』第35号1976
山口県編『山口県史 通史編 中世』2012
山本浩樹『西国の戦国合戦(戦争の日本史12)』2007
渡辺世祐『毛利元就卿伝』1984など

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