おもしろ山口学

杉孫七郎-長州ファイブより先に世界を見た男

 萩藩士として初めて西欧へ渡り、帰国後、日本と外国を結ぶ懸け橋となった人物を紹介します。

 県立山口博物館では、10月14日(月曜日・祝日)までテーマ展「杉孫七郎(すぎ まごしちろう)-長州ファイブ(※1)より先に世界を見た男」を開催中です。孫七郎は幕末、萩藩士として初めて西欧へ渡った人物です。漢詩作りや書の名人で、明治維新後は主に宮中関係の役職に就き、大正天皇が皇太子のときの書道の先生も務めました。今回の展示は、約800点もの孫七郎の貴重な関係資料(※2)が、ご子孫から県立山口博物館へ寄贈され、そのお披露目として行われるものです。
 孫七郎は萩藩士の植木家に生まれ、杉家(※3)の養子となりました。文武に優れ、藩主の側近を務めていた文久元(1861)年10月、藩主に従って江戸へ。その途上、江戸の藩邸から藩主へ急報が届きます。それは、攘夷論(じょういろん)(※4)が高まる中、幕府が開市・開港(※5)の延期を交渉する使節を欧州へ送ることになり、藩としても欧州の現状をつかめる、この好機に、藩士を同行させたいというものでした。
 その候補として藩が選んだのが孫七郎と高杉晋作(たかすぎ しんさく)でした。しかし幕府に頼み込んだところ「雑用従事として1人なら」との回答。孫七郎のみ、使節の会計役の町人が雇った形で、身分を落としてまで加わることに成功します。孫七郎は藩主から「外国の事情形勢、制度、器械等に至るまで留意研究して復命し、国家に役立てるように」と激励され、それに応える決意を養父への手紙にも述べて旅立ちます。

イギリスで実感した脅威が藩を、時代を変えた

 文久元(1861)年12月、イギリスの船で江戸から出航した一行36人(※6)は「火車(※7)」などに乗り継ぎ、翌年3月パリに到着します。2人乗りの気球を見て「百里(※8)程の地に至るそうだ」と驚き、電信局では「万国へ応酬のために設けたもので、3年前発明のものは横文をすぐに印字する」と、孫七郎は藩への報告書に興奮気味に記しています。
 ロンドンでは、万博や、スペインの軍艦を製造した大造船局、蒸気船の「器械」を製造する製鉄所などを見学。「英国は強大で万国に秀でている。武備諸工作場等に至るまでことのほか盛んで、日本は神州といえども200年大平の弊風を守り、因習にとらわれていては、その勢力に飲み込まれてしまうかもしれない」と、孫七郎は感じた脅威を報告書につづっています。オランダでは、旅館の門の外で演奏の歓待を受け、「オランダは200年来の結盟ゆえ仏英より丁寧に引き受けてくれた」と喜びを記す一方、「諸工場は英国に比べ、ひな形(※9)ぐらいに思える」と冷静に観察しています。
 一行は文久2(1862)年12月に帰国。孫七郎はすぐに江戸の藩邸へ向かい、周布政之助(すふ まさのすけ)(※10)の屋敷で、晋作や井上馨らと酒を酌み交わします。報告を聞いた周布は翌年、馨ら5人を密航留学させます。行く先は孫七郎が最も脅威に感じたイギリスでした。しかし、同時期、藩は関門海峡で外国船を砲撃します。その報復に英米仏蘭四国連合艦隊が来襲した際、孫七郎は戦争回避に奔走し、講和会議には晋作と臨み、講和を成功させました。孫七郎の欧州視察は、激動期の日本と外国を結び、また、新たな時代を切り開く人づくりへの懸け橋となったのでした。

※1 幕末、長州(現在の山口県)からイギリスへ留学した伊藤博文(いとう ひろぶみ)、井上馨(いのうえ かおる)、井上勝(いのうえ まさる)、遠藤謹助(えんどう きんすけ)、山尾庸三(やまお ようぞう)。帰国後、さまざまな分野で活躍。
※2 遣欧時のことを孫七郎が漢詩にした『環海詩誌(かんかいしし)』の草稿、大内(おおうち)氏歴代当主の書状などが収められた手鑑(てかがみ)、博文の書状など、室町時代から明治時代のもの。
※3 先祖は室町時代、山口を拠点とした大名・大内氏の重臣・杉氏。
※4 他国を排撃する思想。
※5 幕府が5カ国と結んだ条約の項目。
※6 正使は幕府の勘定奉行兼外国奉行。通訳として福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)も参加。
※7 (中国語から)汽車の意味で孫七郎は使用。一行のほとんどがこの時初めて乗車。
※8 1里は約4キロメートル。ただし時代や地域により異なる。
※9 小形の標本などの意味。
※10 幕末、萩藩の藩政改革を進めたリーダー。

参考文献
「忠正公伝」第12編(3)(山口県文書館蔵)
小山良昌「杉孫七郎の欧州視察と長州ファイブ」『佐波の里(防府史談会会誌)』2010
小山良昌「杉孫七郎の欧州見聞記-萩藩ではじめて渡欧した男-」『蒙談』41号 2007
杉孫七郎『環海詩誌』1904
宮永孝『文久2年のヨーロッパ報告』1989など

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