おもしろ山口学

大内氏・陶氏VS毛利氏 厳島の戦い

第2回:陶晴賢らの渡海と、渡海に反対した弘中隆兼の最期

 近年の研究成果を通して見えてきた厳島の戦いを紹介します。

 毛利元就(もうり もとなり)(※1)が中国地方を制覇するきっかけとなった、弘治元(1555)年の「厳島(いつくしま)(※2)の戦い」。それは前年まで大内(おおうち)氏(※3)の支配下にあった毛利氏が、大内氏の重臣・陶晴賢(すえ はるかた)(※4)が指揮する軍に、厳島で勝利した決戦です。毛利方の勝因は従来、兵力で圧倒的に劣る毛利方が、おとりの城「宮之城(みやのじょう)(※5)」を厳島に築き、大内・陶方をおびき寄せ、奇襲したことによる(※6)、とされてきました。しかし、昨年度刊行された『山口県史 通史編 中世』では、そうした従来の説を再検討しています。
 厳島は元来、厳島神社を擁する「信仰の島」であるだけでなく、「瀬戸内海の交通の要衝」であり、「経済的にも重要な島(※7)」でした。その厳島は室町時代、大内氏の強い影響下にありました。それを毛利方に奪われたのは決戦の前年のこと。大内・陶方が取り戻すべく渡海することは「おびき寄せ」られたのではなく、当然考えられることでした。
 また、県史では、宮之城は決戦以前からあった城の1つであることを明らかにし、従来いわれてきた「おとりの城」ではない、としています。

最期まで戦い抜いた大内氏の重臣・弘中父子

 弘治元(1555)年9月21日、晴賢が率いる大内・陶方は厳島に上陸し、「塔の岡」に本陣を置き、毛利方の宮之城と向き合いました。そのころ大内・陶方はどんな内情だったのか。渡海に反対しながらも晴賢と渡った大内氏の家臣・弘中隆兼(ひろなか たかかね)(※8)の手紙の研究によって、近年明らかになりました。「敵の船が敵の城へ援軍を送ったが、こちらは水軍が不足し、どうしようもなかった」「渡海したからには、我々父子は討ち死にを覚悟している」。それは隆兼が岩国にいる自らの家臣に宛てた28日付の手紙です。従来、兵力は圧倒的に優勢とされてきた大内・陶方が、決戦の直前で水軍の不足という事態に陥っていたのです。
 大内・陶方の水軍の主力たちについては、決戦の約1カ月後の日付で、毛利方に味方する見返りを求めて元就らに提出し、了承を得た文書があります。毛利方との交渉が決戦前から始まっていたことを示す資料はないため、断定はできませんが、決戦前に毛利方へ寝返っていた可能性を県史は示唆しています。
 30日の夜、元就らは軍を率い、ひそかに厳島に上陸し、山を越え、背後から陶の本陣を急襲します。同時に、海上にいた毛利方の水軍も上陸。大内・陶方は山と海から攻め込まれ、晴賢は一矢も射ることなく逃れ、切腹します。一方、隆兼と息子は200から300人の兵と「龍ノ岩(たつのいわ)(※9)」へ登り、毛利方に包囲されながら3日間抵抗しますが、ついに切腹。父子の最期は、大内・陶方から毛利方の支持へ変わっていた神職によって詳しく記され(※10)、敵・味方を問わず心を打ったことがうかがえます。悲壮な覚悟をしたためた隆兼の手紙をはじめ、真実を解き明かす歴史資料は、決戦に揺れた人々の心の内まで浮かび上がらせてくれます。

※1 安芸国(あきのくに。現在の広島県西部)の国人・戦国武将。
※2 現在の広島県廿日市市宮島(はつかいちしみやじま)。
※3 室町時代、山口を拠点とした西国一の大名。
※4 以前の名は隆房(たかふさ)。他の重臣や元就らとクーデターを起こし、主君・大内義隆(よしたか)を廃し、大内義長(よしなが)を擁立した。
※5 現在の宮島桟橋のすぐ南、当時、海に突き出た岬の突端にあった。宮尾城(みやおじょう)などとも呼ばれる。
※6 事実と空想を混じえて毛利氏の視点で書かれた軍記物に基づく。
※7 当時の日本を代表する国際貿易港だった博多(現在の福岡県福岡市)や堺(現在の大阪府堺市)から高価な輸入品を扱う商人が厳島に集った。
※8 岩国を拠点とした、大内氏の有力家臣。安芸国の守護代も務め、元就を熟知していた。
※9 標高509メートルの断崖絶壁の岩場。
※10 厳島神社の神職の一人、棚守房顕(たなもり ふさあき)が天正8(1580)年に記した覚書(おぼえがき)。

参考文献
秋山伸隆「厳島合戦を再考する」『宮島学センター年報』第1号 2010
広島県編「棚守房顕覚書」『広島県史 古代中世資料編』3 1978
山口県編『山口県史 通史編 中世』2012など

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