おもしろ山口学

大内氏・陶氏VS毛利氏 厳島の戦い

第1回:兵力差の真実と、手紙が残した真実

 山口県史で紹介された、従来説とは異なる厳島の戦いを紹介します。

 昨年度、『山口県史 通史編 中世』が刊行されました。そこには県内外の研究者による近年の新しい研究成果が紹介されています。その1つが弘治元(1555)年、大内(おおうち)氏(※1)の重臣・陶晴賢(すえ はるかた)(※2)が指揮する軍と、毛利元就(※3)方との決戦「厳島(いつくしま)(※4)の戦い」です。
 この戦いは、毛利氏が西国一の大名・大内氏の支配から脱し、中国地方を制覇する戦国大名へ転じるきっかけとなったものです。毛利方の勝因は従来、軍記物(※5)に基づき、「陶方2万、毛利方4千」などと、兵力で圧倒的に劣る毛利方が、おとりの城を厳島に築いて陶方をおびき寄せ、奇襲戦法を行ったことによる(※6)、とされてきました。
 しかし、県史では、兵力差に疑問が呈されています。資料を再検討した結果、この戦いで討ち死にした人の名は、陶氏の家臣や、周防国(すおうのくに)(※7)東部の大内氏家臣、神領衆(しんりょうしゅう)(※8)の一部に限られており、内藤(ないとう)氏や杉(すぎ)氏などの大内氏の有力家臣は参加していないことが分かりました。そのことから、おそらく陶方の兵力は1万にも達していなかったとみられます。一方、毛利軍は、家臣団の他、味方に引き入れた諸勢力を加えると、5千をはるかに超えていたと考えられ、陶方・毛利方の兵力に圧倒的な差はなかったと考えられると紹介されています。

作戦変更で兵力を分散させたまま決戦へ

 陶方が、軍を率い、厳島へ渡ったのは弘治元(1555)年9月21日のこと。直前の軍議で、弘中隆兼(ひろなか たかかね)(※9)は渡海に猛反対した、と軍記物では語られてきました。
 そして事実、隆兼が反対したことをうかがわせる、近年まで研究に活用されていなかった手紙を、県史では紹介しています。その手紙とは、隆兼が妻と思われる女性へ宛てた9月29日付のもので、そこには「水軍や晴賢の側近らが作戦の変更を主導した。晴賢がそれを認めたのはくやしい」と書かれています。また、「自分や息子に万一のことがあったら娘に跡を継がせるように。このように言ったからといって心配し過ぎないように」とも記し、戦の中にあっても家族を気遣う隆兼の思いが伝わってきます。
 県史では、陶氏の家臣団を中核とする部隊が厳島の戦いの前と、その後にも、廿日市(※10)の内陸部で軍を展開していたことも紹介しています。これらから、作戦を途中で変更し、兵力を分散させ、内陸部に兵を残したまま厳島へ軍を渡らせたことが、陶方の敗因の1つとなったのではないかと考えられます。悲壮な決意を秘めた隆兼の予感通り、戦いは進んでいったのでした。

※1 室町時代、山口を拠点とした西国一の大名。
※2 以前の名は隆房(たかふさ)。他の重臣や毛利元就(もうり もとなり)らとクーデターを起こし、主君・大内義隆(よしたか)を廃し、大内義長(よしなが)を擁立した。
※3 安芸国(あきのくに。現在の広島県西部)の国人・戦国武将。
※4 現在の広島県廿日市市宮島(はつかいちしみやじま)。
※5 合戦を材料に、事実と空想をまじえて書かれたもの。
※6 毛利氏の視点で書かれた『吉田物語』『陰徳太平記』などによる。
※7 現在の山口県東部。
※8 厳島神主家の家臣層。
※9 岩国を拠点とした、大内氏の有力家臣。かつて安芸国の守護代も務め、元就を熟知していた。
※10 現在の広島県廿日市市。

参考文献
秋山伸隆・表邦男「厳島合戦前夜の山里合戦と『山里要害』」『廿日市の文化』24 2011
山口県編『山口県史 通史編 中世』2012
山本浩樹『西国の戦国合戦(戦争の日本史12)』2007など

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