おもしろ山口学

攘夷戦争と山口大神宮遥拝所の誘致合戦

 山口への自由な出入りが禁じられた幕末。西のお伊勢様をめぐる誘致合戦を紹介します。

 今年が20年に1度の式年遷宮(※1)の年に当たる「伊勢神宮(※2)」と、深いゆかりがある山口市の「山口大神宮(※3)」。県文書館では、小展示「伊勢神宮と山口」を行っており、攘夷(じょうい)(※4)戦争を背景とする、あまり知られていない歴史を教えてくれます。
 伊勢神宮は古くは庶民の参詣が禁じられていましたが、江戸時代になると、御師(おし。おんし)(※5)の活発な活動により、伊勢信仰は庶民の間にも広がりました。人々の自由な旅を禁じていた幕府や諸藩による規制は、寺社参詣には緩やかで、庶民にとって伊勢参りは一生に一度は行きたい憧れの大旅行でした。
 そのころすでに山口には、室町時代に西国一の大名だった大内氏が伊勢神宮から神霊を迎えて創建した山口大神宮がありました。伊勢神宮が遠い九州などから多くの人々が、山口大神宮を「西のお伊勢様」として海路や陸路で参詣していました。

現存する外宮遥拝所と今は幻の内宮遥拝所

 文久3(1863)年4月、萩藩(※6)の藩主が攘夷の実行に備え、拠点を萩から山口へ移します。5月には関門海峡で攘夷戦争を始め、その後、山口を守るため(※7)柳井田(やないだ。現在の山口市小郡)と勝坂(かっさか。現在の防府市右田)等に関所を設けて砲台を据えるなどして、防長(ぼうちょう)(※8)両国以外の人々の山口への出入りを禁じます。防長両国以外からは山口大神宮に参詣できなくなり、台道(だいどう。現在の防府市台道)(※9)村の庄屋らは、せめて遠くからでも拝める遥拝所(ようはいじょ)を造りたいと藩へ陳情します。
 すると台道より西にある小郡津市(ついち)(※10)の商人らも次のような嘆願書を藩に提出します。「津市は幕府役人の通行が増えて経費(※11)が増し、困窮しております。恐ろしい砲台の築造もできる限り手伝いました。遥拝所が造られると聞き、それなら近くの山手(やまて)という所が岩清水の流れる大変清浄な土地です。ぜひそこへ。そうすればご神徳により、砲台設置による恐怖感も消失します」と。これを聞いた台道の庄屋らは津市が手を挙げたことに危機感を抱き、「台道に遥拝所ができれば、宿のほか、履物などの商売で小郡宰判(さいばん)(※12)の街道沿いの西から東まで村々が潤います。しかし、小郡にできれば利益は津市に集中します」と再び書状で切々と訴えます。
 誘致合戦の結果、藩は、伊勢神宮が内宮(ないくう)と外宮(げくう)(※13)から成ることにちなみ、小郡に外宮、約7キロメートル離れた台道に内宮の遥拝所を設けることとし、元治元(1864)年、地元の人々によって社殿が建てられます。しかし、間もなく明治維新となり、関所は取り除かれ、遥拝所設置の目的は失われました。現在、台道の方は近くの堂山(どうやま)と呼ばれる山などに移築した灯籠が残りますが、遙拝所の跡地は竹やぶになっています。小郡の方は一帯が公園となり、今も本殿や中門、神門、灯籠が残ります。遥拝所は、幕末の激動期にあっても、自分たちの村や町をなんとかもり立てようとした人々の熱い思いを浮かび上がらせてくれます。

※1 定められた年ごとに新しい宮を造営して神が遷(うつ)ること。
※2 三重県にある。皇室の祖先神を祭り、最高の特別格の神社とされた。
※3 かつての名は高嶺(こうのみね)太神宮。
※4 他国を排撃する思想。
※5 特定の社寺に所属し、参詣者をその社寺に導き、祈祷(きとう)や宿泊などを世話する者。伊勢の御師は全国各地に赴き、信者に守り札等を配布して祈祷し、米などの寄進を受けた。
※6 萩から山口へ拠点を移したことにより、萩藩を山口藩ともいう。
※7 幕府が藩の内情を探るのを阻止する目的もあったという。
※8 周防国(すおうのくに)・長門国(ながとのくに)。現在の山口県。
※9 山陽道沿いにある。海路の参詣者は近くの旦(だん)の港から陸路に上がったという。
※10 山陽道と石州街道の分岐点にあり、繁栄していた。幕府役人等が泊まる本陣などもあった。
※11 幕府役人の通行に際し、地元が道の整備や人馬による送迎を負担した。
※12 宰判とは萩(山口)藩で一代官が管轄する区域、行政区のこと。
※13 伊勢神宮の内宮と外宮との間は約6キロメール。外宮から内宮へ参るのが正式なルートとされる。

参考文献
小郡町史編集委員会『小郡町史』1979
広田暢久「山口大神宮台道・小郡遥拝所の建立」『山口県神道史研究』1992
ふるさと大道を掘り起こす会『ふるさと大道』17 2009
山口県文書館 月間小展示「伊勢神宮と山口」資料 2013など

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