おもしろ山口学

攘夷戦争と久坂玄瑞・光明寺党

 幕末、時代を動かすきっかけを作った攘夷戦争の舞台裏の出来事を紹介します。

 今年は、幕末の関門海峡での攘夷(じょうい)(※1)戦争の決行と奇兵隊の結成から150年。下関市立長府博物館では、攘夷戦争についての資料を展示中です。その展示は、久坂玄瑞(くさか げんずい)による攘夷戦争の舞台裏の出来事を教えてくれます。
 萩に生まれ、吉田松陰(よしだ しょういん)(※2)の門下生として、高杉晋作(たかすぎ しんさく)と共に松下村塾の双璧だった玄瑞。松陰の死から3年半後の文久3(1863)年4月、尊王(そんのう)(※3)攘夷派の公家らに迫られた幕府によって攘夷開始の日が決まるころ、玄瑞は尊王攘夷派の有志ら約30人を率いて京都から長州(※4)へ帰国。同行者には、玄瑞に共鳴する松陰の門下生や他藩の志士も多くいました。玄瑞らは、山口の藩政府(※5)に行き、攘夷の先鋒(せんぽう)に加わりたいと訴えます。しかし、藩政府はすでに毛利能登(もうり のと)(※6)に赤間関(あかまがせき。現在の下関市)を守る総奉行を命じていたため、総奉行指揮下の藩士による正規軍との摩擦を懸念し、玄瑞らには「敵情偵察」の名目で赤間関へ行かせます。玄瑞らの本営には光明寺(こうみょうじ)(※7)が充てられ、その有志者は約60人に膨らみ、「光明寺党」と呼ばれるようになります。

久坂は誰もが付いていきたい人だった

 5月10日、1隻の外国船が関門海峡に停泊します。総奉行は、その船への尋問の結果「アメリカの商船で、潮待ちをしている」、そして「幕府の書状を持っている」と報告を受けたため、外国船を「打ち払ってはならない」と正規軍へ指示し、光明寺党へも「軽挙なことはするな」と伝えます。
 ところが、それを聞いた光明寺党は「そのまま通らせるのは遺憾だ」と騒然となります。そのとき海峡に松島剛蔵(まつしま ごうぞう)(※8)が率いる藩の軍艦「庚申丸(こうしんまる)(※9)」が現れます。玄瑞ら光明寺党は軍艦へ。軍議が開かれ、意見が噴出する中、「夜、奇襲する」という玄瑞の意見に決します。ついに夜、軍艦から砲撃が決行され、驚いたアメリカの商船は急いで海峡を離れます。この砲撃による攘夷戦争の開戦について、総奉行ら正規軍は事前に知らず、就寝中のまさに寝耳に水の出来事でした。開戦は光明寺党と軍艦の独断によるものだったのです。そして光明寺党は、この後6月に結成される奇兵隊の母体となっていきます。
 この攘夷戦争の前年、玄瑞は攘夷の難しさを松陰の師の佐久間象山(さくま しょうざん)(※10)から説かれていました。それでもあえて決行した玄瑞。かつて玄瑞は「私は性格が軟弱だ。(中略)しかし、自分を棄(す)ててまでするほどではないとして何もしないなら、事を起こす能力がないのと同じだ」と自らを鼓舞する詩を作っています。それは松陰が幕府による弾圧で江戸へ送られる数日前のこと。また、松陰の門下生だった渡辺蒿蔵(わたなべ こうぞう)(※11)は「久坂は誰もが付いていきたい人だった」と証言しています。玄瑞の強い意志と厚い人望が、時代を動かすきっかけを作ったのかもしれません。

※1 他国を排撃する思想。
※2 松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰。
※3 天皇を尊崇する思想。
※4 萩藩やその支藩を含む。現在の山口県。
※5 攘夷の実行に備え、4月、藩主は萩から山口へ拠点を移した。これにより萩藩を山口藩ともいう。
※6 厚狭(あさ。現在の山陽小野田市)を所領とする厚狭毛利家の当主。
※7 海峡近くの地にあり、柱に刀傷が残る。
※8 萩藩の西洋兵学の主要な推進者。
※9 萩藩2隻目の洋式軍艦(帆船)。
※10 思想家。松代(まつしろ)藩(現在の長野県長野市)の藩士。
※11 奇兵隊士。維新後、長崎造船局の初代局長となった。

参考文献
金子久一編『松陰門下の最後の生存者渡辺翁を語る』1940
末松謙澄『防長回天史』4 2009復刻版
下関市市史編修委員会編『下関市史 藩制-市制施行』2009
武田勘治『久坂玄瑞』1998復刻版など

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