おもしろ山口学

幕末明治の洋行者たち 渡辺蒿蔵

 長州ファイブの写真を残し、松陰門下生で最も長命だった人物を紹介します。

 萩博物館では、6月23日(日曜日)まで「長州ファイブ(※1)渡航150年記念企画展 幕末明治の洋行者たち-藩都萩に眠る古写真から2-」を開催中です。展示は、日本の近代化に貢献した、萩出身の3人の洋行者のアルバムを主としています。その1人、渡辺蒿蔵(わたなべ こうぞう)(※2)は吉田松陰(よしだ しょういん)(※3)の門下生の中で最も長く生き、1939(昭和14)年に97歳で亡くなった人物です。
 蒿蔵は1857(安政4)年、15歳のとき、松下村塾に入りました。その際、松陰から「何のために学問をするのか」といわれ、「実行が第一である(※4)」と教わります。蒿蔵は、松陰から「中々奇物、他人未(いま)だ深くは取らず、僕独りこれを愛す(※5)」と評された個性派でした。松陰はそうした個性を認める一方で、自説を曲げない性格を案じ続け、江戸で刑死(※6)する20日ほど前にも、よく見てやってほしいと高杉晋作(たかすぎ しんさく)(※7)に手紙で頼んだほどでした。

松陰の志を継ぎ、日本の造船の近代化を支えた蒿蔵

 蒿蔵は松陰の死後、萩藩建造の洋式軍艦の江戸への航海訓練に参加し、また、久坂玄瑞を支えて尊王攘夷(そんのうじょうい)(※8)運動に奔走していきます。1863(文久3)年、萩藩が関門海峡で外国船に攘夷を実行して敗れ、晋作によって奇兵隊が結成された際には、蒿蔵はそれに参加します。
 外国の脅威を実感した蒿蔵は、その後、英語を独習し、萩藩の海軍学校の英語教師となります。そして木戸孝允(きど たかよし)(※9)らの計らいで藩の許しを得て、1867(慶応3)年にアメリカ・イギリスへ留学。造船を学び、かつて長州ファイブの山尾庸三が働いたグラスゴーの造船所でもハンマーを振るいます。1873(明治6)年に帰国。工部省に入ると、長崎製作所(※10)の管轄者として抜てきされ、当時東洋一のドックを完成させます。そして、改称された長崎造船局の局長となり、工部省をリードした伊藤博文や井上馨、庸三らを支え、日本の造船の近代化に尽力しました。
 退職後、萩に帰郷。松陰についての貴重な証言を残し、その中には次のような言葉もあります。「私は晋作や玄瑞らのような働きはできない人間だった。しかし、松陰先生が今後の日本は大いに造船の技術を発展させ、海外進出の基を築かねばならないと話しておられた。そこで、船大工なら私にもできるだろうと思い、慶応3年、ロンドンに渡った(※11)」。
 入塾時「実行が第一」と教わり、時には松陰を悩ませた個性派の少年は、松陰の言葉に導かれ、人生を歩んだといえます。また、萩博物館蔵の長州ファイブの写真は、蒿蔵の革張りのアルバムの中に大切に収められていたものです。蒿蔵は、日本の近代化に尽くした同志らの軌跡を、写真を通じても残してくれたのです。

※1 幕末、長州(現在の山口県)からイギリスへ留学した伊藤博文(いとう ひろぶみ)、井上馨(いのうえ かおる)、井上勝(いのうえ まさる)、遠藤謹助(えんどう きんすけ)、山尾庸三(やまお ようぞう)。帰国後、さまざまな分野で活躍。
※2 天野(あまの)家の養子となったため、天野清三郎(せいざぶろう)、精三郎ともいう。
※3 国禁を犯して海外渡航を志し、失敗して入獄。その後、松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰。
※4 読書だけでは駄目だということ。
※5 「なかなか変わっている。塾の他の者は彼をまだ分かっていないが、僕は気に入っている」という意味で、門下生の久坂玄瑞(くさか げんずい)への手紙の一文。
※6 松陰は幕府による政治思想家への弾圧で処刑された。
※7 松陰の門下生。
※8 天皇を尊崇する思想と、他国を排撃する思想。
※9 松陰の友人。桂小五郎(かつら こごろう)の名でも知られている。
※10 現在の三菱重工業株式会社長崎造船所。
※11 金子久一編『松陰門下の最後の生存者渡辺翁を語る』1940より。知人がかつて蒿蔵から聞いた言葉として記されている。

参考文献
海原徹『松下村塾の人びと-近世私塾の人間形成』1993
萩博物館『幕末明治の洋行者たち-萩博物館所蔵古写真集成(2)-』2013
山口県教育会編『吉田松陰全集』第5・8巻2001など

▲このページの先頭へ