おもしろ山口学

幕末明治の洋行者たち 山根正次

 森鴎外と同じころに留学し、日本の近代化を支えた人物を紹介します。

 萩博物館では、6月23日(日曜日)まで「長州ファイブ(※1)渡航150年記念企画展 幕末明治の洋行者たち-藩都萩に眠る古写真から2-」を開催中です。その展示は、かつて日本の近代化に貢献した多くの洋行者・留学生がいたことを教えてくれます。
 そうした留学生の1人に山根正次(やまね まさつぐ)(※2)がいます。正次は1857(安政4)年に萩で生まれました。1882(明治15)年に東京大学医学部を卒業し、長崎医学校(現在の長崎大学医学部)に教諭として赴任中、感染症のコレラ(※3)の大流行に遭遇します。正次は数千人を診療し、その病理解剖(※4)も日本人で初めて行ったといわれ、感染症などの予防のため上水道の整備を訴え、その後、実現に至りました。
 また、このころ長崎で外国人による市民への暴行をきっかけに、外国人と日本人双方に多くの死傷者が出る事件が起き、国際問題に発展します。事件直後に外国側は日本人以外の医師を雇って傷を検査し、一方、日本側は正次に命じて負傷者の傷を鑑定させます。この体験で正次は日本の法医学(※5)を振興する必要性を感じ、司法大臣の山田顕義(やまだ あきよし)(※6)に訴えます。訴えは受け入れられ、正次は法医学や公衆衛生(※7)の調査・研究のため1887(明治20)年、ドイツなどへ留学することになったのです。

外国で決闘。若き日の意外な一面

 正次は留学中、写真館で自分の写真を度々撮影しています。中には「呈 森学兄 明治21年7月5日於伯林(ベルリンにおいて)写真ス」と裏書きされたものがあり、森学兄とは、大学の1年先輩で、ドイツに留学中だった森鴎外(もり おうがい)(※8)と考えられます(※9)。当時、肖像写真は名刺のように交換して使う風習がありました。しかし、その写真は正次の元で眠り続けます。くしくも7月5日は鴎外が帰国の途に就いた日で、その写真は、正次が鴎外に渡そうとして果たせなかったものかもしれません。
 また、オーストリアでの出来事がびっしりと裏書きされた写真もあります。そこには次のようなことが記されています。「コーヒー屋で友人と玉突き(ビリヤード)をしていたらオーストリアの大学生に冷笑された。無礼だと言ったが、相手は謝るどころか決闘を申し込んできた。大きな相手はゼーベル(※10)、小さな私は日本刀で決闘したところ、相手は気絶し、私は勝利した。馬車で下宿に帰り、友人とビールで無事を祝った後、この写真を記念に撮る」。
 帰国後、正次は衛生行政などに携わり、山口県選出の衆議院議員となって医師法の発布などに尽力します。また、私立の医学校「済生学舎(さいせいがくしゃ)」が閉鎖され、行き場を失った数百人の医学生を見かねて私立日本医学校(現在の日本医科大学)の創立に関わり、初代校長を務めたほか、同郷者の支援にも尽力しました。
 日本の近代化や若者たちを支え、衛生行政の基礎を築いた一人、正次。留学中の写真は、当時の洋行者たちの誇りや社会的使命感を私たちに教えてくれます。

※「森鴎外」の「鴎」については、閲覧環境に関係なく表示できる簡易慣用字体を使用しています。

※1 幕末、長州(現在の山口県)からイギリスへ留学した伊藤博文(いとう ひろぶみ)、井上馨(いのうえ かおる)、井上勝(いのうえ まさる)、遠藤謹助(えんどう きんすけ)、山尾庸三(やまお ようぞう)。帰国後、さまざまな分野で活躍。
※2 戸籍上はセイジだが、マサツグとも称したという。
※3 当時は治療法が確立されておらず、感染すると数日で死亡し、感染力も強いため医師も恐れた。
※4 死因などの解明のため、病死した人の死体を解剖すること。
※5 犯罪の捜査などに必要な医学。
※6 萩出身で、正次の父と同じ、吉田松陰(よしだ しょういん)の門下生。現在の日本大学の「学祖」。
※7 人々の健康の保持・増進を図ること。
※8 小説家・軍医。代表作は『舞姫』など。
※9 その1カ月前、鴎外や正次ら留学中の17人を含む日本人医学者19人がベルリンに集い、写真を撮っている。
※10 サーベル(洋式刀)。

参考文献
田中助一編『萩の生んだ近代日本の医政家山根正次』1967
萩博物館『幕末明治の洋行者たち-萩博物館所蔵古写真集成(2)-』2013
山崎光夫『明治二十一年六月三日鴎外「ベルリン写真」の謎を解く』2012など

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