おもしろ山口学

岩国の吉川史料館の「天又銀」と山口の「一ノ坂銀山」

 吉川家に代々伝わった、山口の銀で造られたとされる貴重な銀貨を紹介します。

 江戸時代、防長(ぼうちょう)(※1)2カ国を領有する毛利(もうり)氏の東の押さえとなって岩国を治めた吉川(きっかわ)氏(※2)。その吉川家代々の遺産を所蔵する吉川史料館では、4月28日(日曜日)まで銀貨「天又銀(てんまたぎん)」を展示中です。
 日本で古くから産出された銀。その大きな転換期は、16世紀前半、西国一の大名・大内氏の支配下にあった「石見(いわみ)銀山(※3)」で新たな製錬法が導入され、産出量が急増したことにあります。その後、16世紀後半から17世紀にかけて、さまざまな銀貨が有力大名によって造られるようになります。それらは重さを量って使われた細長い楕円(だえん)形の銀貨でした。
 天又銀もその1つで、現存数は、ごくわずかです。吉川史料館のものは、ざらざらとした裏面に花押(かおう)(※4)と重さが記され、銀色に輝く表面には、左右に槌目(つちめ)(※5)があり、縦に「山口天又一」、横に「天又一」という極印(ごくいん)(※6)が幾つも押された縦約15センチメートル・幅約5センチメートルの美しい銀貨です。

幕府による貨幣制度の統一で姿を消した天又銀

 街道「萩往還」(※7)が通る、現在の山口市の山あいに、かつて栄えたといわれる「一ノ坂銀山」があり、そこには今も坑道の跡が残ります。天又銀は、その一ノ坂銀山の銀で造られたものといわれています。毛利輝元(てるもと)(※8)が江戸の家臣に送った1614(慶長19)年の書状に、一ノ坂で多くの坑道が掘られていることが記され、一ノ坂銀山はその年の開発とされる説があります。一方で、それ以前からあったと考える説もあり、確かなことは分かりません。
 18世紀前半の萩藩士の見聞記(※9)には、「天又銀とは、一ノ坂銀山の山奉行(やまぶぎょう)(※10)・天野又右衛門(あまの またえもん)の極印が押された銀子(ぎんす)のこと」「この銀は萩の城下を造るときに使われたそうだ」と伝承が記されています。萩城を築いたのは、石見銀山を含む中国地方8カ国を領有していた毛利氏が、1600(慶長5)年の関ケ原の戦い後、防長2カ国のみの大名となってからのこと。石見銀山も失い、その前後から一ノ坂銀山に力を入れ、初期の藩財政の支えとしたと考えられます。
 19世紀前半の萩藩の記録(※11)には、不思議な伝承が記されています。「やんごとなき君(※12)が江戸におられたとき、富士山に女が登る夢を見られた。夢を占わせたところ、『女は幾つに見えましたか』と尋ねられ、『若い女だった』と答えると、『お国で吉事が起きるでしょう。ただし、残念なことに夢の女が老いた女だったならば、なお永く栄えたかもしれませんが…』と言われた。やがて国へ帰る途中、一ノ坂で鉱脈が発見されたことを聞き、命じて掘らせた。すると銀が出たが、夢の女の年齢ほど年を経て銀山は終わったそうだ」。この伝承によれば、一ノ坂銀山は長期間の稼働ではなかったことがうかがえます。
 天又銀を含め、各地の有力大名が造った貨幣は、徳川幕府による貨幣制度の統一で次第に姿を消します。そうした中、吉川氏が大切な宝として代々守ってきた天又銀が、毛利氏が領有した銀山の繁栄と夢の軌跡を物語ってくれます。

※1 周防国(すおうのくに)・長門国(ながとのくに)。現在の山口県。
※2 かつては安芸国(あきのくに。広島県西部)の国人領主。
※3 石見国(いわみのくに。現在の島根県西部)にあった銀山。
※4 名前の一部などを図案化・文様化したもの。
※5 槌でたたいた跡。
※6 金銀貨の品質を保証するために打った印。
※7 城下町・萩(現在の萩市)と瀬戸内海に臨む三田尻(みたじり。現在の防府市)を結んだ街道。
※8 毛利元就(もとなり)の孫で、萩藩初代藩主の父。
※9 国司広孝(くにし ひろたか)「聞書(ききがき)」。
※10 鉱山を担当した職名。
※11 「風土注進案(ふうどちゅうしんあん)」。
※12 輝元と推測される。

参考文献
石川卓美「山口一ノ坂銀山遺跡の現地調査に関連して」『山口県地方史研究』第43号 1980
伊東多三郎「長州藩成立期の鉱山と貨幣」『近世史の研究 第5冊 領国・鉱山・貨幣』1984
山口県教育委員会『生産遺跡分布調査報告書 採鉱・冶金』1982など

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