おもしろ山口学

岩国にある県内屈指の中世の館跡と、大量の中国の埋納銭

 長者伝説の地で大量の古銭が出土。大内氏家臣・弘中氏館跡かと注目される遺跡を紹介します。

 岩国市を流れる錦川(にしきがわ)の河口で現在、遺跡の発掘調査が行われています。そこは近年まで「加陽和泉守(かやいずみのかみ)(※1)居館跡」と呼ばれてきた遺跡で、館の四方を巡った土塁(※2)が今も残ります。16世紀半ば、毛利元就が周防国(すおうのくに。現在の山口県東部)に攻め入った際、元就の次男が加陽和泉守の所に陣を置いた、と後の江戸時代初めの記録にはあります。地域の人々の間でも、居館は加陽和泉守という人が造ったもの、と伝承されてきました。
 ところが、発掘調査の過程で、出土品などによって、そこは14世紀前半まで築造時期をさかのぼれる「中世の館跡(※3)」だと判明しました。土塁を含む面積は約2万平方メートルに及び、中世の館跡としては、西国一の大名だった山口の大内(おおうち)氏の館跡に匹敵する規模を誇ります。さらに平地にある中世の館跡は全国的に開発で失われることが多い中、そこは土塁などがよく残っていることから、特筆される遺跡だと分かったのです。
 遺跡の名は、地名にちなんで「中津(なかづ)居館跡」と改められ、文献資料の調査も進められました。そうした中、14世紀前半に大規模な館を築けた人物として、大内氏の有力家臣となって栄えた弘中(ひろなか)氏が浮上しました。弘中氏は豊かな財力を持ち、岩国は大内氏にとっても領国の流通・経済・軍事の東の重要拠点だったため、大内氏に匹敵する広大な館を築けたのではないかといった説が考えられています。
 やがて16世紀半ば、安芸国の守護代も務めた弘中隆兼(たかかね)は、元就に対抗し、厳島(いつくしま)の戦いで討ち死にします。その結果、地元では弘中氏のことは語られなくなり、代わって館を一時的に管理した加陽和泉守の名が語られるようになったと推測されます。

黄金千両を埋めた長者の伝説

 中津居館跡の一角に、古くからの薬師堂(やくしどう)(※4)があり、その本尊や周囲の土塁などについて、次のような伝説が江戸時代の記録に残されています。「昔、ここには長者がおり、亡くなった一人娘の冥福を祈って、仏像を安置し、堂の下に黄金千両を埋めた。土塁は、長者が土一杯を持ってきた者に米一杯をやり、石一杯を持ってきた者には銀一杯をやって築いたものだ(※5)」…と。
 昨年末、その伝説を思い起こさせる発見がありました。館跡の地中から少なくとも2万枚と推定される古銭(※6)が出土したのです。13世紀から14世紀ごろのものと推定される甕(かめ)の中に「五貫文緡(ごかんもんざし)(※7)」の状態で4つ。さび付いているものの、状態が損なわれず、埋められた時のままでの発見は大変貴重なことです。大量の古銭の出土から、館のあるじはかなりの有力者であると考えられ、その年代に広大な館を築造できた人物として、弘中氏の可能性が一層高まっています。長者の伝説は、埋もれていた歴史をひもとく手掛かりを、現代の私たちに物語っているようです。

※1 安芸国(あきのくに。現在の広島県西部)の国人・毛利元就(もうり もとなり)に従った水軍の一員。
※2 敵の侵入を防ぐため、土手のように築かれた盛り土。
※3 館の四方を囲む土塁と堀などが特徴。
※4 かつてはこの地にあった瑞光寺(ずいこうじ)のお堂の一つだったが、現在は薬師堂のみ残る。
※5 洪水から館を守る高い土塁が必要だったと考えられる。
※6 中国の宋(そう)の時代の銅貨が中心と推測されている。
※7 銭貨をひもで束ねたものを「緡銭(さしぜに)」といい、約百枚を1単位として、それを10個つないだものが1貫文。

参考文献
岩国市教育委員会『岩国市埋蔵文化財調査報告第1集 中津居館跡(旧加陽和泉守居館跡)』2012など

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