おもしろ山口学

大内義興と足利義稙

第2回:船岡山の戦いと、将軍の政権を支えた義興

 幕府の実権を握った義興の成功を紹介します。

 周防国(すおうのくに。現在の山口県東部)を拠点とした西国一の大名・大内義興(おおうち よしおき)。大軍を率い、亡命中の室町幕府第10代将軍足利義稙(あしかが よしたね)(※1)を擁して京都へ上り、将軍に復帰させると、山城国(やましろのくに。現在の京都府南部)の守護に任じられます。そして京都へ上る際、味方した細川高国(ほそかわ たかくに)(※2)は管領(かんれい)(※3)となり、義興と共に義稙を支えていきます。
 しかし、義稙の将軍復帰から3年後の1511(永正8)年8月、再起を図る前将軍方(※4)から京都へ侵攻されます。将軍義稙・高国・義興らの連合軍は反撃に出て、船岡山(ふなおかやま)(※5)で決戦となり、勝利します。
 その結果を、京都にいた義興の重臣らが山口の重臣らへ急ぎ知らせた手紙があります。手紙には、義興軍が先陣を務め、義興自らも最前線に立って士気を高めたこと、数千人を討ち取ったことが記され、義興が天下分け目の戦いだという覚悟で、この戦いに臨んだことが分かります。多くの戦死者を出し、中でも義興にとって、頼りにしていた重臣(※6)を失ったことは最大の犠牲でした。当代随一の文化人で公卿(くぎょう)の三条西実隆(さんじょうにし さねたか)(※7)も、公私を通じて親しかった、その人物の死に衝撃を受け、日記に二度にわたって「気の毒でならない」と書き記しています。このことは、義興だけでなく、重臣らも文化に関心が高く、教養豊かな公卿らと深く交流していたことを教えてくれます。

義興の成功の象徴「西のお伊勢様」

 大軍を率い、戦いを勝利に導いた義興は、その在京こそ政局安定の鍵、と朝廷から見られて破格の優遇を受け、実隆の仲介で公卿の位を授けられます。一方で、義興自身は帰国の意思を度々表わします。その都度、朝廷や将軍義稙から慰留され、そのことは政権内での義興の存在感を一層高めていきました。その結果、義興は膨大な利益をもたらす日明貿易の実権を、永久に将軍義稙に認めさせます。
 しかし、そのころ西国では、新興勢力が台頭し始めたため、義興は1518(永正15)年、ついに帰国します。約10年間の在京から帰ってすぐに取り組んだ最優先事項の1つは「伊勢大神宮(※8)」の山口への勧請(かんじょう)(※9)でした。これは、天皇や古典を重んじた義興が在京中、正式な行列の作法を学んだ上で伊勢大神宮に参拝したころからの願いでした。その強い思い入れは、義興自ら現地へ行って社地を選んだことからも分かり、社殿の完成後には、天皇から「高嶺太神宮(こうのみねだいじんぐう)(※10)」の額を授かります。当時、伊勢大神宮から神霊を迎えることができたのは山口だけといい、江戸時代には「西のお伊勢様」として西国各地の人々が集いました。高嶺太神宮は、将軍や朝廷から頼られ、幕府の実権を握った義興の成功の象徴だったのです。

※1 義材(よしき)、義尹(よしただ)、義稙と改名。
※2 前管領・細川政元(まさもと)の養子間の争いを経て家督を継いだ。
※3 室町幕府の将軍を補佐する職。
※4 足利義澄(よしずみ)。船岡山の戦いの10日前に死去し、その戦いでの中心は義澄方の細川氏ら。
※5 京都市北区、大徳寺の西南にある山。
※6 大内氏一門の問田弘胤(といだ ひろたね)。戦死した弘胤を、子が脇に抱えて奮戦したという。
※7 歌人、学者としても有名。
※8 現在の三重県にある伊勢神宮。皇室の祖先神を祭り、最高の特別格の神社とされた。
※9 神の分身を他の地に移して祭ること。
※10 現在の県庁の西、鴻ノ峰(こうのみね)の山麓にある。当時、天皇の許しがなければ神宮と称せなかった。現在の山口大神宮。

参考文献
利岡俊昭「長府博物館所蔵本『大内家壁書』について」『地域文化研究』第19号2004など

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