おもしろ山口学

大内義興と足利義稙

第1回:周防国で8年暮らした流浪の足利将軍

 寺社・霊場に詣で、悲願成就を念じた将軍の亡命の日々を紹介します。

 室町幕府第10代将軍足利義稙(あしかが よしたね)(※1)は、細川政元(ほそかわ まさもと)(※2)らによって1493(明応2)年に将軍の座を追われ、諸国を転々としたことから後に「流れ公方(くぼう)」とも称された将軍です。義稙は将軍復帰が悲願で、北陸等を流浪後、日明貿易の権利などをめぐって政元と対立していた西国一の大名・大内義興(おおうち よしおき)が治める周防国(すおうのくに。現在の山口県東部)へ側近らと下向したのは、1499(明応8)年12月末のことでした。
 義稙は、その年を楊井津(やないづ。現在の柳井市)で越し、1月には大内氏の拠点・山口に入り、当初は乗福寺(じょうふくじ)(※3)に滞在しました。3月には大内氏館(※4)に招かれ、中世で最大級のうたげでもてなされます(※5)。義興によって、義稙の館も設けられます。館は神光寺(じんこうじ)(※6)付近の「御屋敷」という地にあったようで(※7)、今も陸上自衛隊山口駐屯地に「上屋敷」「下屋敷」という小字(こあざ)が残り、その辺りに後に「宮野御所(みやのごしょ)」といわれた義稙の館があったのではないかと考えられます。
 周防国下向後、義稙は自分への忠節を呼び掛ける文書を、西国などの有力者に次々と送り、多数派工作を展開します。それは将軍だった時と同じ形式の文書で、亡命中も自らは将軍として振る舞い続けたことが分かります。強大な軍事力や近隣諸国への影響力を持つ義興が義稙を受け入れたことは、敵対する第11代将軍足利義澄(よしずみ)や政元には脅威で、義興退治を命令する文書を西国各地の有力者に次々と送っています。

追放16年目、大内氏の支援で果たした将軍復帰

 義稙は山口滞在中、寺社へ盛んに願を掛けています。今八幡宮(※8)には代理の者を毎日参詣させ、自らは多賀(たが)神社(※9)に7日間こもり、さらに近くの山あいにある、梵字(ぼんじ)(※10)が彫られた2つの巨石が鎮座する霊場へよじ登って祈りをささげたといい、将軍復帰への強い執念がうかがえます。そうした中、側近らと和歌を楽しみ、宮野御所にいたころは茶人に好まれた清水「柳の水(※11)」をわざわざ求めて常に飲んだといい、風雅な暮らしもうかがえます。
 やがて義稙が防府に移った後、京都では1507(永正4)年に政元が自らの後継者争いで暗殺される事件が起きます。それを好機と捉えた義興は、周防国で暮らして8年になる義稙を擁して京都へ上ることを決意します。義興の呼び掛けに中国・九州地方のほとんどの有力者が応じ、数万に膨れ上がった大軍は海路を進み、恐れをなした第11代将軍は戦わずして京都から逃走し、義稙は将軍復帰を果たします。それは1508(永正5)年7月のことで、将軍追放から16年目のことでした。

※1 義材(よしき)、義尹(よしただ)、義稙と改名。
※2 管領(かんれい)として将軍を補佐する職にあったが、実際には幕府の主導権を握っていた。
※3 現在の山口市大内御堀(みほり)にある大内氏ゆかりの寺。
※4 現在の山口市大殿大路(おおどのおおじ)にある龍福寺(りゅうふくじ)の地にあった。
※5 「明応九年三月五日将軍御成雑掌(ざっしょう)注文」によれば、義稙に31膳が出されている(32膳と解釈する説もある)。
※6 現在の山口市八幡馬場(やわたのばば)にある神福寺(じんぷくじ)。
※7 江戸時代の「風土注進案」による。
※8 現在の社殿は楼門・拝殿が一体となった楼拝殿造りで義興のころの建立。国指定重要文化財。
※9 当時は、現在の県庁の南東にあった。現在は、県庁の南西の山口大神宮境内にある。
※10 古代インドで用いられた文字。仏教とともに日本に伝えられた。
※11 現在の県庁の北西、五十鈴川(いすずがわ)砂防ダムの北にあり、名水として知られる。

参考文献
萩原大輔「足利義尹政権考」『ヒストリア』229号2011
和田秀作「山口で暮らした足利将軍」『毛利元就と地域社会』2007など

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