おもしろ山口学

京都画壇を代表する画家として活躍した森寛斎

第2回:円山派の再興を託されて

 特徴ある画風を身に付け、画家の最高峰に上り詰めた生涯を紹介します。

 円山(まるやま)派(※1)の緻密で写実的な絵に、南画(なんが)(※2)や、やまと絵(※3)的な要素を加えた、気品あふれる描写が特徴の画家・森寛斎(もり かんさい)。寛斎は1814(文化11)年に萩に生まれ、大坂に出て円山応挙の弟子・森徹山(てつざん)に学びました。
 円山派の始祖・応挙は、中国の沈南蘋(しんなんぴん)(※4)のほか、西洋の絵画の透視遠近法や陰影法の影響を受けて、写実的で装飾性豊かな画風を確立した画家で、金刀比羅宮(ことひらぐう)(※5)の障壁画の大作などを手掛けています。
 応挙が亡くなり、寛斎が徹山に師事したころには、円山派は京都であまり目立たない状態となっていました。寛斎は徹山の養子となり、円山派の再興を託されたとされ、京都を拠点とします。寛斎は四国の寺社へ仕事で度々出掛け、中でも金刀比羅宮では、表書院の応挙の襖(ふすま)絵の修復などを行い、修復を通じて応挙の技法を学び取ります。
 金毘羅参(こんぴらまいり)(※6)の渡海地で、瀬戸内海の要衝として栄えた下津井(しもつい。現在の岡山県倉敷市)なども度々訪れています。南画的な画法は、こうした四国・中国地方を遊歴していたころ習得したともいわれています。幕末の激動期には、寛斎は萩藩の密使としても活動するようになり、その際も下津井に寄って絵筆を振るっています。

帝室技芸員を拝命し、画家の最高峰に

 明治維新後は、品川弥二郎(しながわ やじろう)(※7)ら、かつての志士らと親交を続けながらも、国事からは離れ、画業に専念します。
 寛斎の代表作には、『伊勢(いせ)物語』の話を題材にした、やまと絵的な「芥川(あくたがわ)図(※8)」や、「葡萄(ぶどう)とりす図」などがあります。葡萄とりす図は、第1回内国絵画共進会(※9)で銀賞を受賞した作品で、その後、同じ絵を明治天皇から勅命を受けて描いて献上し(※10)、さらに金刀比羅宮からも再三頼まれて描き、さすがに画家として不本意だったのか、寛斎は「二度と同じ絵は描かない」と宣言しています。
 京都画壇の重鎮となった寛斎は、後進の指導にも尽力したほか、1890(明治23)年には当時の画家の最高峰といえる帝室技芸員(※11)を拝命します。そして、その4年後、81歳で生涯を閉じます。寛斎は生前、絵の依頼者から金品を包んで渡されても、絵の完成まで、その包みを決して開けなかったといいます。弥二郎からそのことを尋ねられた寛斎は、こう答えています。「私はどんなに困っていても、金額が多いか少ないかを見て、絵を描くことはしない」。寛斎の死後、遺品を弟子たちが見ると、その言葉通り、未完の絵の金品の包みが3つ、開かれないまま残されていました。画家の最高峰に上り詰めながらも、絵に誠実な寛斎の姿勢は、最期まで変わることはなかったのでした。

※1 円山応挙(おうきょ)を始祖とする画家の一派。
※2 江戸中期以降、柔らかな筆法などを特徴とする中国の南宗画(なんしゅうが)の影響を受けつつ、日本で独自に発達した絵画様式。
※3 日本の風景・事物を描いた絵で、中国の風景などを描いた唐絵(からえ)と区別した呼び方。
※4 1731(享保16)年に来日し、写実的な花鳥画を教えた中国の画家。
※5 香川県琴平(ことひら)町にある神社。こんぴら様として親しまれている。
※6 金刀比羅宮に詣でること。
※7 吉田松陰(よしだ しょういん)の門下生。明治維新後、内務大臣などを務めた。
※8 高貴な女性を愛し、奪って逃げた男の物語の一場面を描いた絵。
※9 欧化政策で衰微した日本の伝統美術の復興への動きを受け、政府が開催した展覧会。
※10 現在は山口県立美術館蔵。
※11 皇室の美術・工芸品の制作をした美術家。日本の伝統美術の保護・奨励を目的に設置。

参考文献
木村治輔『森寛斎翁七周年薦事会展観録』1900
森大狂『近世名匠談』1900
山口県立美術館『円山派と森寛斎-応挙から寛斎へ-』1982
「ふるさとの作家(1)森寛斎」『防長倶楽部』第504号 1982など

▲このページの先頭へ