おもしろ山口学

京都画壇を代表する画家として活躍した森寛斎

第1回:萩藩の密使として活躍

 幕末から明治時代にかけて京都で活躍した日本画家を紹介します。

 県立美術館では、2月5日(火曜日)から3月3日(日曜日)まで「京の日本画 森寛斎(もり かんさい)と森派」を開催します。寛斎は京都画壇を代表する画家であったと同時に、幕末には、萩藩の密使としても活動した人物でした。
 寛斎は1814(文化11)年、萩で生まれました。20代で大坂に出て円山応挙(まるやま おうきょ)(※1)の弟子・森徹山(てつざん)に師事し、京都を拠点に、御所の杉戸に絵を描く仕事にも携わります。
 そのころ世の中は騒乱の時代に突入し、寛斎にも尊王攘夷(そんのうじょうい)(※2)の志が芽生え、自宅には諸国の志士(※3)が集うようになります。そうした中で寛斎は、萩藩士の品川弥二郎(しながわ やじろう)(※4)から頼まれ、射撃の的として異国人を描いた「人体的異人図」(※5)を制作し、京都の藩邸では、それを射撃訓練に用いたといいます。

時に農民、時に金毘羅参の姿に変装して

 やがて寛斎は、時代の渦にいや応なく飲み込まれていきます。萩藩は、1863(文久3)年8月18日の政変で京都を追放され(※6)、1864(元治元)年7月19日には禁門の変(※7)で敗退。長州(※8)出身というだけで投獄されかねない事態となり、寛斎も住まいを離れて身を潜めます。そして清水寺(きよみずでら)近くの料亭で萩藩士数人と密会する中で、誰かが帰国し、この状況を藩主に伝えるべきだ、という話となり、その大役を寛斎が担うことになったとされます。
 寛斎は変装して京を離れます。そのときの姿は、蓑(みの)と笠(かさ)をかぶり、片手に一升徳利(いっしょうどくり)を下げた農民の姿だったといいます。寛斎は大坂へ行き、船で讃岐へ渡り、金毘羅参(こんぴらまいり)(※9)の装いに改め、再び船に乗り宮島(みやじま)を経て三田尻(みたじり。現在の山口県防府市)に上陸したとされます。そして藩主に面会を許されると、京都の状況などを報告します。その後、寛斎は萩藩に召し抱えられ、京都方面の事情を探るよう命じられ、長州との間を何度か往復します。当時のこととして、『近世名匠談』には、幕府方は長州の志士を捜索する際、「ハクション」ではなく「ハクショー」と声を響かす、長州人に多いくしゃみの癖を手掛かりにしたといい、寛斎は、それを隠すのに苦労したという逸話が紹介されています。
 明治維新後、寛斎と親しかった旧彦根藩の谷鉄臣らが、幕末の動乱で亡くなった人々を京都東山の霊山(りょうぜん)(※10)に民間で祀る私的な組織を起こします(※11)。寛斎は熱心に応援し、その祭典の日、一首の歌をささげました。「もろ共につくしも果てすいたつらに 残りて君をまつるかなしさ」(※12)。かつて自宅に集った多くの友を亡くした寛斎の気持ちが、その歌から伝わってきます。

※1 江戸時代中期の画家。京都の御所や讃岐(さぬき。現在の香川県)の金刀比羅宮(ことひらぐう)の障壁画などを制作。
※2 天皇を尊崇する思想と、他国を排撃する思想。
※3 萩藩以外では、福岡藩の平野国臣(ひらの くにおみ)、彦根藩(現在の滋賀県東部)の谷鉄臣(たに てつおみ)など。
※4 吉田松陰(よしだ しょういん)の門下生。
※5 現存し、無数の弾痕が残る。「尊攘堂(そんじょうどう)」蔵。尊攘堂は明治維新後、弥二郎が松陰の遺志を継ぎ、志士を祀(まつ)るため京都に建てたもの。移転・新築され、今は京都大学構内にある。
※6 萩藩を支持していた朝廷の態度が急変し、萩藩は尊王攘夷派の7人の公卿(くぎょう)と共に追放された。
※7 再起を図った萩藩士らと、鹿児島藩(現在の鹿児島県)などによる京都御所での戦い。
※8 萩藩やその支藩を含む。現在の山口県。
※9 金刀比羅宮に詣でること。当時は白装束で詣でた。
※10 多くの志士の墓がある。
※11 時山弥八(ときやま やはち)「森寛斎履歴材料」、森大狂(もり だいきょう)『近世名匠談』による。
※12 共に国事に尽くしたあなたたちは亡くなり、役に立たない私が残り、あなたたちを祀ることになってしまった、といった意味。

参考文献
時山弥八「森寛斎履歴材料」(県文書館蔵)
森大狂『近世名匠談』1900
山口県立美術館『円山派と森寛斎-応挙から寛斎へ-』1982など

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