おもしろ山口学

赤間関の硯「赤間硯」

第2回:大名や異国人、松陰ら志士も愛した赤間硯

 人々に愛された赤間硯(あかますずり)について、江戸時代に焦点を当てて紹介します。

 赤紫色を基調とする石色で知られる赤間硯(※1)。戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した毛利輝元(もうり てるもと)(※2)の遺品に赤間硯があります(※3)。飾りのない実用的な硯で、細い縁や全体の造形から丁寧に作られた上品な印象を受ける名品です。一見すると赤間硯にはない黒い色をしていますが、裏を見ると色は赤みを帯びています。そこには「天下一」「赤間関住(じゅう)大森土佐守頼澂(おおもり とさのかみ よりずみ)」(※4)と銘が刻まれ、赤間硯であることは明らかで、使われて表の面が墨に染まり、黒い硯のように見えるのだと分かります。
 その天下一という銘は、硯では、赤間硯にしか見られません。硯以外では、天下一と施された鏡などもあり、天下一が多用されるようになったためか、1682(天和2)年に徳川幕府により、天下一の使用が禁止されます。故に、天下一と刻まれた赤間硯は、禁止令以前に作られた古いものである可能性が高いといえます。
 赤間硯は遺跡からの発見も多く、江戸(現在の東京都)の複数の大名屋敷の遺跡からも出土しており、それらは大名への贈答品として用いられたのではと考えられています。

贈答・土産・形見・友情の印となった赤間硯

 赤間硯は、萩藩から朝鮮通信使(※5)への贈答品としても度々使われました。朝鮮通信使の18世紀初めの日記には「硯は極めて良く、赤間の石は古くから珍品といわれている」と記されています。他に海外へ渡ったものとして、オランダのシーボルト・コレクション(※6)に「赤間石」として収集されている硯が現存しています。
 また、日本と中国の有名な硯を紹介した書物(※7)や、尾張(おわり。現在の愛知県)の呉服商の紀行文(※8)など、さまざまな書物からも、赤間硯の評判の高さがうかがえます。そして寺子屋が増え、読み書きできる人が増えるにつれ、高級品以外の赤間硯も作られ、広まっていったことが、全国各地の遺跡の出土品から明らかになっています。
 ところで、赤間硯を愛用した人物に、幕末の吉田松陰(よしだ しょういん)(※9)がいました。松陰は幕府による処刑7日前、両親たちに宛てた手紙で、別れの言葉とともに、自分が赤間関で購入し、普段用いてきた硯などを家でまつってほしいとつづっています。その文からは自分の著述を助けてくれた硯への感謝の思いが伝わってきます。そして実際にその硯は、萩にある松陰神社に今も御神体としてまつられています。
 赤間硯を友情と感謝の印に用いた人物もいます。それは京都伏見(ふしみ)の寺田屋で襲撃された坂本龍馬(さかもと りょうま)を助け、共に脱出した長府(ちょうふ。現在の下関市)藩士の三吉慎蔵(みよし しんぞう)です。彼はその事件を機に厚い友情で結ばれた龍馬と、そのとき助けてくれた西郷隆盛(さいごう たかもり)に、赤間硯を贈っています。
 古来、文房四宝(※10)の1つとされた硯。時の流れと共にあった赤間硯を通して、人々の足跡や思いまで浮かび上がってくるようです。

※1 古くは赤間関(あかまがせき。現在の下関市)で、現在は下関市や宇部市で制作されている硯。下関では「赤間関硯」と呼ぶ。
※2 毛利元就(もとなり)の孫。豊臣(とよとみ)政権の五大老の一人。
※3 現在は、防府市にある毛利博物館に所蔵されている。
※4 かつて朝廷に硯を献上し、土佐守という名誉称号を賜り、天下一と名乗ることを許されたとされ、大森の姓は豊臣秀吉から賜ったとされる。
※5 江戸時代の場合は、朝鮮国王が徳川将軍に派遣した外交使節団のことをいう。
※6 シーボルトは、ドイツの医学者でオランダ商館医員として来日し、1826(文政9)年、下関に立ち寄った。シーボルト・コレクションは、シーボルトや息子たちが日本で収集したもの。
※7 鳥羽希聡(とば きそう)『和漢研(硯)譜(わかんけんぷ)』。
※8 菱屋平七(ひしや へいしち)『筑紫(つくし)紀行』。
※9 萩の松下村塾(しょうかそんじゅく)で多くの志士を育てた。
※10 中国の文人が、文房具のうちで筆・墨・硯・紙を宝としたことから、これらを文房四宝という。

参考文献
岩崎仁志「考古学からみた赤間硯-近世の在銘資料を中心に」『地域文化研究所紀要』第21号 2006
江戸遺跡研究会『図説江戸考古学研究事典』2001
山口県教育会『吉田松陰全集』第8巻 2012など

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