おもしろ山口学

赤間関の硯「赤間硯」

第1回:海峡のまちで生まれた歴史と美しい5種類の石

 美しい石色などで珍重され、秀吉もたたえた赤間硯(あかますずり)を紹介します。

 下関市立長府博物館では、平成25年2月24日(日曜日)まで、常設展「下関の歴史と文化」を開催中です。その常設展では、日本の硯の中でも長い歴史を誇る赤間硯(※1)が展示され、銘が刻まれた江戸時代以降の貴重な硯を見ることができます。
 赤間硯という名称は、古くから赤間関(現在の下関市)で制作されてきたことにちなみます。最も歴史の古い赤間硯の硯師(※2)だった大森(おおもり)家の先祖は、室町時代、朝廷に硯を献上し、その技を称賛されて「土佐守(とさのかみ)(※3)」という名誉称号を賜り、「天下一」と名乗ることを許されたとされます。そして、その大森という姓も安土桃山時代に豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)から賜ったとされます(※4)。
 その硯用の石材は、赤間石(あかまいし)(※5)などの名で知られてきました。赤間石は古くは豊前国門司(ぶぜんのくに もじ。現在の福岡県北九州市門司)や赤間関で、江戸時代中期からは厚狭(あさ。現在の山陽小野田市厚狭)で採石され、赤間関で硯に加工されていました。現在では、主に宇部市の山で採石され、下関市や宇部市(※6)で硯に加工されています。

中国の紫色の端渓(たんけい)硯に似た赤間石

 採石は現在、採石権を持つ宇部市の硯師の手で行われています。赤間石は、山に掘った坑道の中で採石します。坑道は赤間石を含む地層に沿って約20度の傾斜で下っており、雨水がたまりやすく、排水作業が欠かせません。地層から硯に適した石を見極める目も養わねばならず、火薬も使用することから、全工程が手作業である硯の制作の中でも、採石は特に苦労の多い作業といえます。
 硯の石材には、墨をすり下ろすための鋒鋩(ほうぼう)(※7)が不可欠です。赤間石はこの鋒鋩を満遍なく含み、硯に適しています。さらに硯の制作工程で鋒鋩を研ぐことにより、墨を細かくすれ、伸びの良い墨液を得られることから、赤間硯は細筆で続けて書く仮名文字に向くといわれています。また、赤間石は粘りがあり、のみなどの工具を当てても割れにくいために彫刻などを施しやすく、観賞用の美しい硯を作れることも特徴です。
 赤間石には、色や硬さなどが異なる5種類の石があり、赤紫色を帯びた茶褐色の「紫雲石(しうんせき)」がよく知られています。他に、丸い眼(め)のような紋様がある「紫玉石(しぎょくせき)」、石全体が青っぽい「紫青石(しせいせき)」、石全体が紫色を帯びた「紫石(しせき)」、青みや赤みを帯びた縞(しま)模様があってぬらすと殊に美しく、殿様用に使われたともいう「紫金石(しきんせき)」があり、これら4種類は特に数が限られています。
 古来、赤間石の硯が珍重されたのは、国内に赤紫を基調とする硯の石材が少ない中、日本で尊ばれた中国の「端渓硯」(※8)に色が似ていたからではと考えられています。

※1 下関では「赤間関(あかまがせき)硯」と呼ぶ。赤間硯は1976(昭和51)年に国の伝統的工芸品に指定。
※2 硯を制作する人。
※3 当時、名誉称号に使用された「土佐」などの国名は居住地と関係ない。
※4 朝鮮出兵の途中、赤間関で硯作りを見た秀吉に、硯師が硯を献上。裏山に大きな松の茂みがあったことから大森の姓を賜ったとされる。また、当時の職人には一般的に姓はない。
※5 山口県西部に広く分布する堆積岩の一種、赤色頁岩(けつがん)。その硯用の石を赤間石と呼ぶのは、赤間関で採石・制作されてきたことから、あるいは赤色の石からという説がある。
※6 宇部市西万倉(まぐら)での採石・硯の制作は、明治時代にはすでに行われていた。
※7 微粒子のギザギザ状の目。鋒鋩の成分は、石材中の石英(せきえい)など。
※8 紫色を基調とした色と、丸い眼のような斑紋を含むことなどが特徴。

参考文献
岩崎仁志「近世赤間硯の銘について」『山口考古』第25号 2005
下関市市史編集委員会編『下関市史 藩制-市制施行』2009
名倉鳳山『日本の硯』1986
堀尾卓司「赤間関硯」『郷土』第27集 1981など

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