おもしろ山口学

薩長盟約を支えた長府藩士や中岡慎太郎たち

 仲介役として有名な龍馬の参画に至るまでの軌跡を紹介します。

 下関市立長府博物館では、11月18日(日曜日)まで、特別展「薩長(さっちょう)盟約(※1)と下関-長府藩(※2)士と龍馬(りょうま)・慎太郎(しんたろう)(※3)のキセキ-」を開催中です。この展示は、幕末の薩長盟約が、多くの人々に支えられて実現したことを教えてくれます。
 萩藩は、1863(文久3)年8月、7人の公卿(※4)と共に京都を追放され、1864(元治元)年には、再起を図った「禁門の変」で鹿児島藩などの兵に敗れ、さらに朝廷から長州征討の勅命が下され(※5)、窮地に陥ります。
 11月、征討軍の解兵条件の1つとして、萩藩には、五卿の九州移転が征討軍から示されます。九州移転に反対する諸隊(※6)は、萩藩から解散を命じられたため、五卿を奉じて長府へ向かいます。その中に、禁門の変で京都から逃れてきた慎太郎がいました。
 その五卿と諸隊を、長府藩主の了解を得ずに独断で受け入れたのが、長府藩家老の三吉周亮(みよし かねすけ)でした。間もなく、三吉をはじめとする長府藩士らは、萩藩と鹿児島藩を和解させようと考えていた福岡藩の志士らの訪問を受けます。長府藩士や慎太郎は、彼らの意見に賛同し、五卿の九州移転と薩長和解へ向けて動き始めます。

龍馬との偶然の出会いへ

 12月15日、五卿は九州移転を容認します。翌日、高杉晋作(たかすぎ しんさく)が幕府に従おうとする萩藩の政権を打倒することを目指し、長府の功山寺(こうざんじ)で決起します。数日後、その情報を得た征討軍から詰問された三吉は、高杉の決起は「さしたる問題ではない」と告げます。薩長和解を望む三吉は、征討軍の解兵への動きなどを止めたくなかったからだと推測されます。翌年1月1日には、三吉は薩長和解を考えていた鹿児島藩の西郷隆盛(さいごう たかもり)(※7)から、高杉との会談の仲介を求められ、その日のうちに下関で実現させたといいます(※8)。
 無事に征討軍が解兵され、五卿が太宰府(だざいふ)へ移った後も、慎太郎、長府藩士、鹿児島藩士らは、会談を重ね、薩長和解の方策を練ります。1865(慶応元)年5月、太宰府の五卿の元を訪れた長府藩士の時田光介(ときた みつすけ)(※9)と萩藩士の楫取素彦(かとり もとひこ)(※10)が、龍馬と偶然会います。龍馬から、萩藩の木戸孝允(きど たかよし)(※11)に会って薩長和解について話したいと聞いた2人は、木戸へ龍馬との会見を勧めることとし、翌月、木戸と龍馬に時田を含む会談が成立します。その会談を通じて、木戸は鹿児島藩と手を握ることを決意。こうして長府藩士らのひそかな活躍によって、萩藩と鹿児島藩が薩長盟約の締結へと大きく前進したのでした。

※1 萩藩と鹿児島藩との間でひそかに結ばれた和解・提携。
※2 現在の下関市の多くを領地とした藩。萩藩の支藩の一つ。
※3 中岡(なかおか)慎太郎。高知藩(現在の高知県)出身の志士。
※4 朝廷を混乱させた過激な攘夷(じょうい)派の三条実美(さんじょう さねとみ)ら。その後、1人は離れ、1人は病死。
※5 萩藩は京都御所へ発砲したことから朝敵とされ、幕府によって征討軍が編成された。
※6 幕末維新期に萩藩や支藩で結成された、藩士や庶民からなる奇兵隊などの軍事組織。
※7 このとき西郷は征討軍の首脳部の1人として、小倉にいた。
※8 三吉は後に、この会談が薩長和解の第一歩だったと振り返っている。
※9 長府藩の重臣。井上少輔(いのうえ しょうすけ)、時田少輔の名でも知られている。
※10 吉田松陰(よしだ しょういん)とは義理の兄弟。
※11 当時の名は桂小五郎(かつら こごろう)。

参考文献
下関市立長府博物館 展示図録『薩長盟約と下関-長府藩士と龍馬・慎太郎のキセキ-』2012など

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