おもしろ山口学

大内義隆の栄華と悲劇

第2回:重臣らによるクーデターと毛利元就

 重臣らによるクーデターには、毛利氏も協力していたことを紹介します。

 1542(天文11)年、山口を本拠とする大内義隆(おおうち よしたか)は、大内氏の領国を脅かす尼子(あまこ)氏(※1)を攻めるべく、出雲国へ自ら出陣します。それは、勢力下の中国地方の国人領主(※2)らも参加した大軍での遠征でした。遠征は約1年にも及び、やがて大内氏方から尼子氏方へ寝返る国人領主が続出する事態に陥り、大内氏方は大敗します。敗走の途中で義隆は、同行した跡継ぎの養子が溺死する悲運にも見舞われました。
 しかし、義隆は山口に帰着後間もなく、再び各地へ軍を派遣します。石見国(いわみのくに)・安芸国(あきのくに)(※3)の守りを固め直し、備後国(びんごのくに)(※4)には全域に大内氏方の勢力を広げ、伊予国(いよのくに)(※5)でも反大内氏勢力を攻め、芸予(げいよ)諸島(※6)もほぼ勢力下に収めます。その結果、大内氏の勢力範囲は、北部九州も含めて歴代で最大となり、義隆の位階も室町幕府将軍を除き、武家としては破格の高い位階である従二位(じゅにい)を朝廷から賜りました。

陶氏らの挙兵からわずか3日目で義隆自刃

 ところが、義隆が栄華を極める裏側では、陶隆房(すえ たかふさ)をはじめとする重臣らによるクーデターの計画が進んでいきます。背景には、出雲からの敗走後、自らは出陣しなくなった義隆に対し、敵勢力に対応しながら、領国経営に腐心していた重臣らの不満がありました。そして1551(天文20)年8月28日、ついに陶氏らは挙兵します。
 しかし、このクーデターは重臣らだけによるものではありませんでした。挙兵1年前の8月、陶氏が安芸国の国人領主のリーダー格だった毛利元就(もうり もとなり)父子に宛てた、次のような意味の書状(画像を参照)が残っています。「かねてからの件、2人の重臣と相談し、義隆を廃して義隆の子を擁立することに合意した(※7)」…と。この書状には、そのことを毛利氏から他の国人領主に伝えてほしいとも記されています。計画を知らされた国人領主らは、賛同の条件として、それぞれが所有したい土地などの希望を、毛利氏を介して陶氏らに伝えます。さらに陶氏らの挙兵の直前には、毛利氏は安芸国で大内氏の城を奪い、自らの勢力範囲を広げます。後に陶氏を破り、中国地方の覇権を握ることになる毛利氏が、国人領主らとのパイプ役を務め、陰でクーデターに協力していたのでした。
 陶氏らの挙兵を受け、義隆はわずかな家臣らと山口から日本海方面へ逃れ、船で脱出を図ります。しかし、風や波に阻まれて船は戻され、大寧寺(たいねいじ)(※8)に入って高僧と夜通し語らった後、朝を迎え、同年9月1日に自刃を遂げたといわれています。それは陶氏らの挙兵からわずか3日目(※9)のことでした。

※1 出雲国(いずものくに。現在の島根県東部)を拠点とした戦国大名。
※2 小規模な地域の領主。
※3 石見国は現在の島根県西部、安芸国は現在の広島県西部。
※4 現在の広島県東部。
※5 現在の愛媛県。
※6 広島県・愛媛県にまたがる瀬戸内海の島々。
※7 その後、変更され、義隆の子も殺害された。
※8 長門市湯本温泉の近くにある寺院。
※9 その年の8月は、当時の日本の暦では、29日まで。

参考文献
河合正治『安芸毛利一族』1984
岸田裕之「陶隆房の挙兵と毛利元就」『山口県地方史研究』65 1991
岸田裕之編『毛利元就と地域社会』2007など

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