おもしろ山口学

大内義隆の栄華と悲劇

第1回:文書から浮かぶ大内義隆の人物像

 悲劇的な最期を迎えた義隆とは、どんな人物だったのかを紹介します。

 室町時代、西国一の大名だった大内(おおうち)氏。その歴代当主の中で最も栄華を極めた義隆(よしたか)は、重臣らのクーデターによって自害した悲劇の人としても知られています。
 その死から約280年後の江戸時代後期には、義隆は戦への備えを忘れ、学問に熱中し過ぎて家を滅ぼした戒めの例(※1)とされるようになります。一方で、義隆と共に亡くなった宮司(ぐうじ)の子に当たる人物が、江戸時代初期に記した文書(※2)では、義隆について「人物の器量は世に二人とない」と評価されています。
 そのように評される義隆ですが、実際はどんな人物だったのかを探る手掛かりとして、筆跡や花押(かおう)(※3)があります。字は人を表すといいます。自筆の手紙を見ると、義隆の字は堂々と大きく、伸びやかで、字を書き慣れた人という印象を受けます。また、義隆の花押は、類例がないほど大きく、自由奔放で独特であることなどが特徴です。そうした筆跡や花押からは、豪放でおおらかな人物像が浮かんできます。さらに当時、公家も武家もほとんど使わなくなっていた平安時代初期・中期の形式の花押(※4)も時に用いており、そこからは古典的な教養を自ら積極的に学んでいた姿がうかがえます。

教養豊かで、武力も官位も手中に

 義隆の教養は、儒学や神道、和歌など幅広い分野に及び、僧とも親しく交流していました。1541(天文10)年、戦いに勝利して手中に収めた安芸国(あきのくに。現在の広島県西部)の山城にいた義隆の元に、大内氏による遣明船の副使を務めた高僧がやってきます。中国からの無事帰国を義隆は喜び、何日も徹夜で盃(さかずき)を交わします。高僧が去る前日には、マツタケ汁でもてなし、宴を夜明けまで続け、さらに見送りに外まで出ると、坂の途中で盃を取って小歌(こうた)(※5)を歌った…と、義隆の親しみやすい一面が高僧の日記(※6)に留められています。
 このとき義隆は、勢力下にあった中国地方西部を脅かすようになった尼子氏(※7)らとの戦いで、勝利を重ねていました。各地を次々と傘下に収め、宮島の厳島(いつくしま)神社も支配下に置きます(※8)。大内氏の勢力下だった北部九州で起きた戦も、有利な形で終結させていました。また、1541(天文10)年は公卿(くぎょう)の仲間入りを果たした年でもありました。
 豪放で、教養豊かで、武力も栄華も極めつつあった義隆。しかし、僧を上機嫌で見送った年から10年後の1551(天文20)年、悲劇的な最期を迎えることになります。

※1 江戸時代後期、幕府老中だった松平定信(まつだいら さだのぶ)の常に防備を怠らないことの大切さを説いた随筆『閑(しずか)なるあまり』より。
※2 山口の多賀社(たがしゃ)大宮司・高橋言延(たかはし ことのぶ)の『大内殿滅亡之次第』。
※3 名前の一部などを図案化・文様化したもの。
※4 字画を大幅に省略する草書(そうしょ)の書体で「義隆」と書いた花押。
※5 当時、民間で流行した短い歌謡。恋を歌ったものが多い。
※6 策彦周良(さくげん しゅうりょう)の『策彦入明記』。
※7 出雲国(いずものくに。現在の島根県東部)を拠点とした戦国大名。
※8 厳島神社の大鳥居は長年ない状態が続いており、後に義隆が再建。

参考文献
岸田裕之編『毛利元就と地域社会』2007
福尾猛市郎『大内義隆』1989
山口県編『山口県史 史料編 中世1』1996
米原正義編『大内義隆のすべて』1988など

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