おもしろ山口学

鷲頭弘忠と上杉憲実と「大寧寺」

 全国に名を知られていた大寧寺にまつわる2人の人物を紹介します。

 長門(ながと)市湯本温泉の近くに、「大寧寺(たいねいじ)」という曹洞宗(そうとうしゅう)(※1)の寺院があります。大寧寺は、西国一の守護大名・大内(おおうち)氏と同じ一族だった鷲頭弘忠(わしず ひろただ)によって室町時代の15世紀前半に開かれました。
 鷲頭氏は、14世紀前半には、大内氏よりも力があり、周防国(すおうのくに)の守護を務めた一族でした。その後、鷲頭氏は周防国・長門国の守護となった大内氏の家臣に下りますが、15世紀前半になると、弘忠は当時の当主・大内持世(もちよ)に重んじられ、長門国の守護代(しゅごだい)(※2)となりました。
 弘忠が拠点を置いたのは、長門国深川荘(ふかわのしょう。現在の長門市)です。そこは日本海に面した湾があり、九州が近く、古代からの山陰道も通る、物流の要の地でした。弘忠は、そこに高僧を招き(※3)、大寧寺を開きます。地域で厚く信仰されてきた現在の飯山(いいやま)八幡宮の社殿も造り直し、領主としての姿を住民に印象づけました。さらに弘忠は筑前国(ちくぜんのくに。現在の福岡県)で大規模な荘園(※4)の代官を務め、また、九州の守護大名らと戦いを重ねた持世を支え、有力な武将としても活躍しました。
 しかし、中国や朝鮮半島からの最先端の文化・物流の窓口だった九州に地盤を広げ、文化も武力も伸展させたため、大内氏に危険視されたのか、弘忠は持世の死後、跡を継いだ大内教弘(のりひろ)により、1448年(文安5)年、滅ぼされました。

上杉憲実最期の地

 大寧寺は、初代住職の弟子の高僧たちが住職を継いでいきます。湯本温泉(※5)の泉源を管理するなど、地域と密接な関係を築き、また、弘忠の死後は大内氏の保護の下、住職を務める高僧を慕って、全国各地から僧が集う大寺院となります。大寧寺で修行した僧は、さらに各地へ赴いて活躍しました。
 そうしてやってきた人の中に、かつて鎌倉府で関東管領(かんれい)(※6)を務め、足利学校(※7)を再興するなど、高い学識で知られた上杉憲実(うえすぎ のりざね)がいます。憲実は、室町幕府と鎌倉府の対立により、鎌倉府の自分の主君(※8)を死に追いやることとなった人でした。その憲実が、罪の意識から僧となって放浪し、落ち着いた最期の地が大寧寺だったのです。儒学に関心が高かった憲実は、その師として仰げる、儒学を深く極めていた大寧寺の高僧にようやく出会え、大寧寺を最期の地に選んだといわれています。
 弘忠と憲実。同じころ、主君に翻弄(ほんろう)され、波乱の生涯を送った2人は今、大寧寺の境内に並ぶように立つ墓に、ひっそりと眠っています。

※1 禅宗の一つ。
※2 京都在住が原則だった守護に代わって職務を行った人。
※3 薩摩国(さつまのくに。現在の鹿児島県)出身で、曹洞宗の大本山の1つだった能登国(のとのくに。現在の石川県)の「総持寺(そうじじ)」の住職を務めた僧。
※4 公家や寺社が所有した土地。
※5 大寧寺の住職が関わって発見されたという伝説がある。
※6 室町幕府の地方機関だった鎌倉府の首長の補佐役。
※7 室町時代初期、現在の栃木県足利市に創設された学校。国の史跡に指定されている。
※8 足利持氏(もちうじ)。憲実は、幕府と対立する持氏を度々いさめたが、対立の溝は埋まらず、幕府の命により持氏を滅ぼした。

参考文献
大寧寺『曹洞宗瑞雲山大寧護国禅寺略史』2010
田辺久子『上杉憲実』1999
長門市編『長門市史 歴史編』1981など

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