吉田松陰(よしだ しょういん)の妹婿であり、幕末から明治時代にかけて活躍した人物を紹介します。
萩博物館では、9月22日(土曜日)から10月21日(日曜日)まで、没後100年記念特別展「楫取素彦(かとり もとひこ)(※1)と幕末・明治の群像」を開催します。
楫取は1829(文政12)年、萩で生まれました。儒教の学者の養子となり、藩校「明倫館(めいりんかん)」勤めを経て、江戸藩邸勤めのとき、萩から来た1歳下の松陰と親しくなり、意気投合します。さらに楫取が帰郷後に松陰の妹(※2)と結婚したことが、2人の絆を強めることになりました。
やがて楫取は明倫館で学者として本格的に教育に携わります。一方、松陰はペリーの黒船によるアメリカへの密航に失敗し、幕府によって捕らわれの身で萩に送り返された後、「松下村塾(しょうかそんじゅく)」などで教えるようになります。
そうした中、幕府による安政の大獄(※3)が始まります。萩の獄舎に入れられ、幕府への批判が過激さを増す松陰に、多くの塾生が一時的に離れていく中、楫取は盛んに手紙を交わし続けます。その間、意見が対立し、松陰からは、ある塾生への手紙に「楫取の考えとは合わない。絶交せよ」とまで書かれます。それでも、幕府からの呼び出しで江戸送りが決まった松陰から松下村塾の後を託されたのは、松陰が密航を企てた罪を負ったときも支え続けた、友人で義理の兄弟でもある楫取でした。
変わらなかった松陰への思い
しかし、幕府による松陰の処刑後、楫取は松下村塾に長く関われませんでした。それは藩主の側近として東奔西走するようになったためです。1865(慶応元)年には、九州に逃れていた5人の公卿(くぎょう)(※4)を藩主の命令で訪ね、その際、坂本龍馬(さかもと りょうま)と知り合います。楫取は龍馬と話し、萩藩士の木戸孝允(きど たかよし)(※5)に龍馬と会うよう勧める手紙を書き、そのことが薩長同盟(盟約)(※6)実現のきっかけとなりました。
明治維新後、楫取は1876(明治9)年に成立した群馬県(※7)の初代の県令(※8)となって養蚕業・製糸業や教育の振興に尽力し、国政などにも関わります。1887(明治20)年には男爵となり、明治天皇の皇女の御養育主任などを歴任しました。
楫取が県令を務めていたころ、萩では、1人の元塾生によって松下村塾の塾舎保存の声が上がるようになりました。1889(明治22)年には松陰没後30年を迎え、楫取は荒廃した塾舎を見かね、その保存とともに、松陰の功績をたたえるように呼び掛け、翌年には、塾舎の保存工事が実現し、松陰を祀(まつ)る小さな祠(ほこら)(※9)も建てられました。時代が大きく変わっても、楫取は松陰に終生変わらぬ思いを抱き続けていたのです。
写真:男爵楫取素彦肖像画(群馬県立歴史博物館蔵)
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※1 小田村伊之助(おだむら いのすけ)の名でも知られている。
※2 松陰の妹の寿子(ひさこ)と結婚。その没後、やはり松陰の妹であり、久坂玄瑞(くさか げんずい)の未亡人となっていた美和子(みわこ)と再婚。
※3 尊王攘夷(そんのうじょうい)運動への大弾圧。これにより、1859(安政6)年に松陰は処刑された。
※4 1863(文久3)年8月、政変によって京都を追放された尊王攘夷派の三条実美(さんじょう さねとみ)ら7人の公卿の中の5人。
※5 桂小五郎(かつら こごろう)の名でも知られている。
※6 1866(慶応2)年1月、萩藩と鹿児島藩との間でひそかに結ばれた和解・提携。
※7 第2次群馬県ともいう。現在の群馬県に近い形で成立。
※8 現在の県知事。
※9 萩市にある松陰神社の始まり。
参考文献
道迫真吾「楫取素彦の教育観についての一考察」『山口県地方史研究』99、2008
萩博物館 展示図録『楫取素彦と幕末・明治の群像』2012
公益財団法人毛利報公会『吉田松陰投獄後の松下村塾を託されていた 男爵 楫取素彦の生涯』2012など