江戸時代に建てられてから2011(平成23)年に復元されるまでの、波乱の歴史を紹介します。
江戸時代、城下町・萩(現在の萩市)と瀬戸内海に臨む三田尻(みたじり)(現在の防府市)を結んだ街道「萩往還」。その三田尻に、1654(承応3)年、藩主の参勤交代の休憩・宿泊などのために建てられた「三田尻御茶屋(※1)」があります。
建てられて以来、数回に及んだ改築・改修の中で、7代藩主・毛利重就(もうり しげたか)による改修が最も大きなものでした。重就は自らの治世で造った防府の塩田を度々視察するなど、防府に愛着を持ち、三田尻御茶屋を隠居後の地と定め、1783(天明3)年に2階建ての「大観楼(だいかんろう)(※2)」棟の建設を含む大改修を行いました。同年、重就が隠居して住むようになると、三田尻御茶屋は「三田尻御殿」と称するようになりました。
重就が藩主となった当時の萩藩は財政事情が厳しく、そのため重就は経済振興策などの藩政改革を断行し、後に「中興の祖」と称賛されるようになったことで知られています。しかし、多額の費用をかけた三田尻御殿には、家臣による批判がありました。重就が6年間居住して亡くなると、翌年以降、8代藩主によって、本来の御茶屋の目的に沿って、御殿の一部は解体・移築、規模も縮小されました。
尊王攘夷派の拠点が進駐軍将兵のダンスホールに
幕末には、京都から追われた7人の公卿(くぎょう)(※3)が大観楼棟の2階に約2カ月間滞在し、13代藩主・敬親や萩藩士の高杉晋作(たかすぎ しんさく)らと会ったほか、敷地内の別棟には志士が集うなど、三田尻御茶屋は尊王攘夷派(※4)の拠点となりました。
ところが、そのような三田尻御茶屋が、第2次世界大戦後には、進駐軍将兵の集会所となります。大観楼棟1階の格式高い御書院の2つの間は、外国人のダンスホールとするため、畳を取り払って床を20センチメートル下げ、じゅうたんを敷き、一部の柱は取り外すなど、大幅に改築されました。
その後は市の公民館となっていましたが、1996(平成8)年に老朽化による保存修理工事が始まると、さまざまな事実が発見されました。襖紙(ふすまがみ)の下から、金ぱくで毛利家の裏紋(※5)などが描かれた美しい襖紙が発見されたり、明治時代に建てられた奥座敷棟の襖の黒ずんだ引き手を磨くと、金地に蝶(ちょう)や花の模様が彫られた華やかな七宝焼(しっぽうやき)(※6)の金具が現れたりと、毛利家の栄華を細部までたたえていたことが分かったのです。それらの発見も生かし、各棟をそれぞれが建設された時代に合わせて復元する工事が2011(平成23)年に完了し、三田尻御茶屋は美しくよみがえりました。
写真:三田尻御茶屋(英雲荘)(防府市教育委員会提供)
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※1 1939(昭和14)年、市に寄付され、英雲荘(えいうんそう)と命名。
※2 幕末、13代藩主・敬親(たかちか)によって命名された。
※3 1863(文久3)年8月、萩藩を支持していた朝廷の態度が急変し、尊王攘夷(そんのうじょうい)派の三条実美(さんじょう さねとみ)をはじめとする7人の公卿は萩藩と共に京都を追放された。(いわゆる七卿落ち)
※4 天皇を尊崇する思想と、他国を排撃する思想を持った人々。
※5 家紋の正式な紋の代わりに使う紋。毛利家の裏紋の模様は、矢じりの形をした葉を持つ植物「オモダカ」。
※6 金属などの表面にガラス質のうわぐすりを焼き付けて模様を表わしたもの。
参考文献
小川國治『毛利重就』2003
防府市教育委員会『史跡萩往還 三田尻御茶屋保存修理工事報告書』2011
岡田悟『毛利藩における三田尻御茶屋について』1993
山口県教育委員会『山口県の近代和風建築 山口県近代和風建築総合調査報告書』2011など