おもしろ山口学

北浦地方の虫送り行事「サバー送り」

 今も数十キロメートルにわたって行われる民俗行事を紹介します。

 長門市から下関市にかけての日本海沿いの北浦地方(※1)では、田植え後の時期に、藁(わら)人形を用いる「サバー送り」という行事が行われています。これは稲の害虫を追い払う「虫送り」の一種で、虫送りのような行事は全国各地でさまざまな方法によって行われてきました。
 北浦地方の場合、「サバーサマ」「サネモリサマ」という2体の騎馬武者姿の藁人形を作り、それを自分たちの地域から隣の地域へ、さらに隣の地域へと、かつての村の境を幾つも越え、延々と送り出していくのが特徴です。サバーとは、稲の害虫であるウンカ(※2)などを指し、サネモリとは、源平合戦で亡くなった老武士・斉藤実盛(さいとう さねもり)(※3)を指すとされます。無念の死を遂げた実盛の怨霊が稲を荒らすようになり、その怨霊を鎮めるためにサネモリサマとして、ウンカの化身をサバーサマとして、あがめ、害虫をよそへ連れて行っていただくよう祈る行事といわれています。
 かつて、虫の害などによる米の凶作は飢饉(ききん)をもたらしたため、萩藩やその支藩では、各地で虫送りを行い、豊作を願いました(※4)。しかし、明治時代以後、虫送りは各地で廃れていきました。そうした中で、北浦地方のサバー送りは今も行われ、確認されたものでは最長約53キロメートルの距離を、約1カ月にわたって送り出されています。そのような例は、全国的にもまれで、2009(平成21)年には、県の無形民俗文化財に指定されました。

サバー送りが教えてくれる地域社会の姿と祈り

 現在のサバー送りは、6月末から7月上旬にかけて長門市の飯山八幡宮(いいやまはちまんぐう)で、地域の人々が藁人形を作ることから始まります。形が出来上がると、顔には、白い半紙を貼り付け、宮司が目・鼻・口を描き、頭には紙で作った兜(かぶと)をかぶせ、背には羽織代わりに貼った紙に「一○」(※5)と書き、腰には木の枝で作った刀を差します。
 約1週間後、八幡宮での神事の後、地域の人たちが藁人形を担ぎ、幟(のぼり)を持ち、鉦(かね)や太鼓をたたきながら出発します。そして車に乗り換え、初日は旧長門市域と長門市日置(へき)との境(※6)に藁人形を置いて立ち去ります。そこからは、子ども会などが徒歩や車で中継点(※7)まで運び、そっと置いて立ち去ると、また送り出されます。長門市油谷(ゆや)に入っても同様に行われます。
 下関市豊北(ほうほく)町まで来ると、藁人形はかなり傷んでおり、見つけた人によって運ばれ、置く場所も一定せず、どこまで行くかはその年次第です。特に豊北町では、その藁人形をこっそり運べば不幸にならないとされてきました。近年では伝承を知らない人が増え、藁人形は放置されたまま朽ちる年もありますが、藁人形を見つけた子どもたちが寺社や地域の古老に聞いて伝承を学ぶ例もあり、多くの場合、最後は海に流されます(※8)。
 サバー送りは、協力して災いを懸命に防ごうとした、かつての地域社会の姿と切なる祈りを教えてくれます。


※1 北浦地方という通称は、萩市を含む場合もある。
※2 特にトビイロウンカは梅雨期に中国大陸から飛来し、稲に産卵し、ふ化した幼虫は株元に生息する。大発生すると稲は枯れ、米の収量減や品質低下を招く。
※3 現在の石川県で源義仲(みなもとのよしなか)軍と平家軍との戦で、平家方で死んだ老武士。最期の戦と覚悟し、若い武士に侮られないよう、白髪を染めて出陣。孤軍奮闘したが、最期は義仲の家来に首を落とされた(『平家物語』)。また、稲株につまずいて討ち死にしたという伝承もある。
※4 虫送り以外に防虫剤として田にまくための鯨油(げいゆ)も配布。
※5 毛利の家紋(「一」の下に「○」が三つ)を略した印と思われる。
※6 川が流れる境川(さかいがわ)という地。江戸時代、境川は異なる行政単位の境界に当たった。
※7 三差路、四つつじ、地蔵、墓、村と村との境界など。
※8 2002(平成14)年には、8月2日に、下関市豊浦(とようら)町犬鳴(いぬなき)峠から海に流されたことを確認。

参考文献
『土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム研究紀要』1 2006,同2 2007
長門市郷土文化研究会編『郷土文化ながと』20 2008
柳田国男「実盛塚」『柳田国男全集』9
福田アジオほか編『日本民俗大辞典』(下)2001など

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