おもしろ山口学

山口県文書館「絵図と古文書で歩く萩往還」

第1回:「かっぱの手形板」伝説

街道絵図「行程記」の中から、萩の長蔵寺にまつわる伝説を紹介します。

 県文書館では、6月9日(土曜日)に第7回中国四国地区アーカイブズウィーク 歴史探究講座「絵図と古文書で歩く萩往還-萩から三田尻(みたじり)まで-」を開催します。これは「行程記」などの絵図や古文書、写真などを交えながら、城下町・萩(萩市)と三田尻(防府市)とを結んだ街道「萩往還」を紹介する講座で、会場にいながら萩往還を歩く気分を楽しもうというものです。
 行程記とは、江戸時代、萩藩が萩から江戸までの主要街道を全23帖(じょう)の折本(※1)に描いた街道絵図の傑作です。行程記には、今では残っていないものも書き込まれており、萩だけを見ても、和泉式部(いずみしきぶ)(※2)が滞留したという伝承を持つ地名「和泉寺(わせんじ)」、金谷(かなや)天満宮の大木戸(おおきど)(※3)などがあります。長蔵寺(ちょうぞうじ)の「えんこう(いわゆるかっぱ)の手形板」の話もその一つで、行程記には次のように記されています。
 「当寺の宝物に、えんこうの手形板がある。洪水のとき、近辺の牛馬を寺中へつないでおいたところ、一匹のえんこうがやってきた。牛馬を水中へ引き込もうとしたえんこうを捕らえ、牛馬の守護をするなら命を助けてやると言ったところ、えんこうはすぐに手を差し出して手形を押した。それを板に写し取り、牛馬の祈祷(きとう)の時に用いるようになった」…と。つまり、長蔵寺では、えんこうの手形板を版木にして刷ったものを、牛馬の守り札として人々に与えるようになった、というのです。

えんこうの手形板がなぜそこに

 長蔵寺のえんこうの手形板は、残念ながら現存しないようです。また、県内には、えんこうが馬を川に引き込もうとした話、「いたずらは二度としません」と誓う証を取った話はほかにもありますが、手形を印刷し、守り札として与えた話は珍しいといえます。
 この洪水のころの長蔵寺は、現在の地(萩市椿)と少し異なり、城下町への玄関口といえる大木戸があった金谷天満宮の南東、萩往還と赤間関(あかまがせき)街道(※4)との分岐点「濁淵(にごりぶち)」の東、大屋口(おおやぐち)にありました(※5)。濁淵は橋本川に注ぐ川がすぐ近くを流れています。初代藩主のときには、洪水によって濁淵一帯に水があふれ、九州からの使者が城下に入れず、長蔵寺にしばらく滞在したこともありました(※6)。長蔵寺は城下への要衝の地にあり、また、一帯は水害に度々襲われた地だったからこそ、交通や農耕に欠かせない牛馬が水難などの災いに遭わないよう人々が切に願い、手形板の話が生まれたのかもしれません。
 絵図の情報は、街道の様子だけでなく、人々の暮らしにまで思いをはせさせてくれます。


※1 横に長くつないだ紙を等間隔で折り畳んで作った本。
※2 平安時代の歌人。
※3 両脇を柵で囲い、中央に門柱を設けたもの。そばに番所が置かれ、日暮れから夜明けまでは城下への出入りを禁じていた。
※4 萩と現在の下関市とを結んだ街道。
※5 「御国廻御行程記(おくにまわりおんこうていき)」の別冊「寺社旧記」による。
※6 初代藩主の父・毛利輝元(もうり てるもと)も萩に入る際、長蔵寺を度々利用。

参考文献
山口県文書館編『絵図でみる防長の町と村』1989
山田稔『絵図で見る萩の街道-萩往還・石州街道・赤間関街道-』2011
柳田國男「山島民譚集」『柳田國男全集』2 1997
和田寛編『河童伝承大辞典』2005など

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