おもしろ山口学

壇ノ浦の戦いと赤間神宮

第2回:「阿弥陀寺絵図」から見える赤間関

 阿弥陀寺から、龍宮を思わせる門を持つ赤間神宮への歩みを紹介します。

 下関市立美術館では、5月13日(日曜日)まで「赤間(あかま)神宮宝物展-源平合戦と赤間神宮-」を開催中です。赤間神宮は、1185(文治元)年3月、源平最後の合戦「壇ノ浦(※1)の戦い」で、祖母の二位尼(にいのあま)(※2)と共に海へ入水(じゅすい)し、数え年8歳で亡くなった安徳(あんとく)天皇をまつる神宮です。そこにはかつて、長門国(※3)阿弥陀(あみだ)寺と呼ばれた寺がありました。
 阿弥陀寺の創建(※4)は、壇ノ浦の戦いから6年後の1191(建久2)年といわれ、当時の公卿(くぎょう)の日記(※5)には、朝廷が、安徳天皇の霊が怨霊となることを恐れ、その霊を鎮めることなどを目的に、長門国に仏堂を建てることを決議した、と記されています。
 また、室町時代の文書(※6)によれば、阿弥陀寺は壇ノ浦の戦いの翌年に造られ、その時の開山(※7)は安徳天皇の母である建礼門院(けんれいもんいん)(※8)の乳母の娘である…とあり、当初は尼寺だったことが分かります。さらに、その文書には後の住職と思われる人物によって、朱書で源頼朝(みなもとのよりとも)の名が加えられており、創建に頼朝が関わっていたとする認識があったことをうかがわせます。

波の下にも都あり

 かつての阿弥陀寺は、どんな様子だったのか。それをうかがわせる貴重な「阿弥陀寺絵図」が、赤間神宮宝物展で公開されています。描かれているのは、向かって右から阿弥陀寺の末寺、鎮守八幡宮(ちんじゅはちまんぐう)、池をはさんで本堂、その手前には鐘楼(しょうろう)、御影堂(みえいどう)(※9)など。海峡に面した寺の浜辺には、武士や商人、犬を連れた猟師、多くの家々。海上には船も描かれ、赤間関(あかまがせき)(※10)が海上交通の要衝として栄えていた様子まで教えてくれます。
 阿弥陀寺は、何度か火事に遭いながら再建を重ねており、前出の絵図は、鎌倉時代の1290年代に再建された寺の様子を描いたもの(※11)と考えられています。近年、その絵図の修理の際、裏に「当寺開基文治二年(中略)源頼朝卿御願所如此絵□者也」(※12)という朱書があることが発見されました。これらによれば、阿弥陀寺の創建には、平氏を滅ぼした頼朝と、やはり何らかのつながりがあるのかもしれません。
 阿弥陀寺は明治維新後、赤間神宮となり、1945(昭和20)年の空襲で全焼したものの、4年後に本殿が再建されました。そして入水する幼い天皇に二位尼が「波の下にも都あり」と慰めたように、龍宮を思わせる、現在の朱塗りの水天門(すいてんもん)が1958(昭和33)年、海峡を望む境内入口に誕生したのでした。


※1 かつては、関門海峡が最も狭くなる辺りから下関市長府沖までを指した。
※2 平清盛(たいらのきよもり)の正室。
※3 現在の山口県の西半分。
※4 その始まりの歴史には諸説ある。
※5 九条兼実(くじょう かねざね)『玉葉(ぎょくよう)』(建久2年閏12月20・22・28・29日条)。
※6 1519(永正16)年、阿弥陀寺の僧が、大内氏の重臣である陶弘詮(すえ ひろあき)に提出した寺再興の願書。
※7 山を開いて寺を建てた人、または寺や宗派を創始した人。
※8 清盛の娘。
※9 山口県文書館蔵「長府領阿弥陀寺絵図」(江戸時代)には天皇殿とある。
※10 下関の旧名。
※11 室町時代か戦国時代の作品と考えられている。
※12 当寺が開かれたのは1186(文治2)年…、源頼朝卿の願いで建てられた建物はこの絵のようなもの…といった意味と思われる。□は判読不能の文字。

参考文献
赤間神宮編『赤間神宮文書 重要文化財』1990
井土誠「『安徳天皇縁起絵図』について」『下関市立美術館研究紀要』4 1993
下関市市史編修委員会編『下関市史 原始-中世』2008
山口県編『山口県史 史料編 中世1』1996など

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