おもしろ山口学

壇ノ浦の戦いと赤間神宮

第1回:語り、守り継がれてきた「紙本金地着色安徳天皇絵」

 絵から消えた安徳天皇入水の場面の謎を紹介します。

 下関市立美術館では、4月25日(水曜日)から5月13日(日曜日)まで「赤間(あかま)神宮宝物展-源平合戦と赤間神宮-」を開催します。赤間神宮は、源平最後の合戦「壇ノ浦(※1)の戦い」で入水(じゅすい)して、数え年8歳で亡くなった安徳(あんとく)天皇(※2)をまつる神宮です。そこには、明治維新まで長門国(※3)阿弥陀(あみだ)寺という寺がありました。今回の宝物展は、往時からの宝物をまとめて公開する初めての機会となります。
 宝物の一つに、室町時代後期の作品と考えられている、金箔(きんぱく)を貼った華麗な「紙本金地着色(しほんこんじちゃくしょく)安徳天皇絵」があります。絵は連続する全8幅(ふく)に及ぶ大画面(※4)で構成され、そこに安徳天皇にまつわる物語が描かれており、中でも圧巻なのは壇ノ浦での合戦を描いた第7幅と8幅です。

絵解きの台本もあった

 陰陽(おんみょう)博士(※5)が戦の行方を占ったイルカの群れ(※6)。平氏の勇将に狙われ、船から船へ飛び移って逃げる源義経(みなもとのよしつね)。海に身を投げた後、長い髪が源氏の兵の熊手(くまで)に掛かって船へ引き寄せられる建礼門院(けんれいもんいん)…。第7幅と8幅では、『平家物語』の中でも有名な、それらの場面に幾つも出会えます。
 しかし、袖で顔を覆ったように見える女性のすぐそばで、船べりに幼い安徳天皇がたたずんでいると思われるところは、なぜか、絵が消えてしまっています。
 これまでの研究の結果、阿弥陀寺には、安徳天皇の木像をまつった御影堂(みえいどう)があり(※7)、その隣の部屋の襖(ふすま)と壁の3方を飾る絵として、全8幅の安徳天皇絵があったと考えられています。また、下関市立長府図書館には、阿弥陀寺の参拝者らに、この絵について僧が「絵解き(※8)」と呼ばれる説明を行った際の、いわば台本ともいえる、室町時代末期の「絵説書(えときしょ)(※9)」があります。安徳天皇の入水部分は、長年、僧が竿(さお)で指しながら参拝者に思いを込めて語ったが故に、かすれ、消えてしまったのでは…と推測されるのです。
 明治維新後、阿弥陀寺が廃された後、御影堂は解体され、安徳天皇絵は掛け軸にされました。その後、赤間神宮となった後の1945(昭和20)年、社殿は空襲で焼失します。しかし、このとき安徳天皇絵は掛け軸となっていたため持ち出され、焼失を免れました。悲運の幼帝を弔ってきた阿弥陀寺・赤間神宮。だからこそ安徳天皇絵は、時代の荒波を生き抜き、守られてきたのかもしれません。


※1 かつては、関門海峡が最も狭くなる辺りから下関市長府沖までを指した。
※2 母は平清盛(たいらのきよもり)の娘、建礼門院。
※3 現在の山口県の西半分。
※4 高さは約160センチメートル。幅は約125センチメートルと約90センチメートルの2種類。
※5 天文・暦・占いなどの学問を教えた博士。
※6 絵説書によれば、イルカが敵の船に向かえば平氏の勝利、天皇が乗った御座船(ござぶね)に向かえば平氏の負けと占われた。
※7 御影堂には、安徳天皇を守るように平家一門の肖像画が配されていたと考えられている。
※8 絵画などを用いて、寺社縁起や経典などを説く行為のこと。
※9 「赤間関於阿弥陀寺安徳天皇絵説」

参考文献
石田拓也「赤間神宮宝物安徳天皇縁起絵図 掛軸色紙形及びその絵説詞章」『大東文化大学紀要』17号1979
井土誠「『安徳天皇縁起絵図』について」『下関市立美術館研究紀要』4号1993
宮次男「源平合戦絵」『日本美術工芸』337号(『赤間神宮』1978)など

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