おもしろ山口学

城下町・岩国と幕末(後編)

 岩国が萩藩との関係を修復し、維新に大きな役割を果たした歴史を紹介します。

 市立博物館の岩国徴古館(ちょうこかん)では、5月13日(日曜日)まで「幕末の動乱と岩国」展を開催中です。岩国は江戸時代初め、吉川広家(きっかわ ひろいえ)(※1)が毛利輝元(もうり てるもと)から長州(※2)の東の要の地を与えられて築いた城下町。しかし、岩国領は幕府から公式な藩として認められず、その後、萩藩からの幕府への働き掛けもなく、吉川氏と毛利氏とはやがて疎遠となっていきました。
 幕末になり、吉川経幹(きっかわ つねまさ)(※3)は、1863(文久3)年、尊王攘夷派(※4)の旗頭だった萩藩主・毛利敬親(もうり たかちか)から協力を求められ、吉川家の待遇改善を約束されます。それを受けて経幹は敬親の代わりに上京しますが、「8月18日の政変」(※5)が起き、京都から萩藩と共に追放された公卿(くぎょう)らを守りながら長州へ帰ります。
 萩藩は翌年「禁門の変」(※6)を起こし、敗退します。さらに幕府から長州征討(第一次)の軍を出されますが、経幹自ら、萩藩存続のために幕府軍総督との交渉に赴き、征長軍(※7)の撤兵につなげます。しかし、幕府から再び征討令が出され、1866(慶応2)年6月「第二次長州征討(幕長戦争)」(※8)が長州の4つの国境(くにざかい)で始まりました。

明治になって、ようやく念願の藩に

 その1つ「芸州口(げいしゅうぐち)の戦い」は、6月14日、長州と芸州(現在の広島県)の国境を流れる小瀬川(おぜがわ)の河口で火ぶたを切りました。芸州口の長州軍は、遊撃隊(※9)や岩国兵などで組織され、経幹が指揮をしていました(※10)。当初、装備や軍制を洋式に改めていた長州軍の方が、旧式装備だった征長軍の先鋒(せんぽう)より有利でしたが、やがて征長軍の中でも西洋式の装備を持つ藩との戦いとなり、さらに海からは幕府軍艦の砲撃もあり、一進一退の攻防となります。
 遊撃隊の参謀・河瀬安四郎(かわせ やすしろう)は、岩国兵について開戦時は「乱暴で、号令が行き届かない」などと萩藩に報告しますが、1週間もたたぬうちに「今では誠に申し分なく」「士気も盛んになり」「(経幹様が)厳重な注意をしてくださったのだろう」と一転した戦いぶりを称賛して知らせています(※11)。
 この戦いは最終的には征長軍が撤退し、他の3つの地でも長州軍が戦いを有利に進め、やがて幕府の解兵が決議され、実質上、長州軍の勝利となりました。
 開戦から9カ月後の1867(慶応3)年3月、経幹は39歳で病死します。突然の死は秘密にされ、生前の経幹の働きを高く評価した敬親から朝廷への上書により、岩国領は1868(明治元)年、念願の藩として認められ、翌年、経幹の死去が発表されたのでした。


※1 毛利輝元のいとこ。
※2 諸説あるが、長州とは、萩藩やその支藩を含む呼び方。現在の山口県。
※3 広家を初代として12代。
※4 天皇を尊崇する思想と、他国を排撃する思想を持った人々。
※5 萩藩を支持していた朝廷の態度が急変し、萩藩は御所の警備の役目を解かれ、尊王攘夷派の7人の公卿と共に京都を追放された。
※6 再起を図った萩藩士らと、鹿児島藩・会津藩(現在の鹿児島県・福島県西部)などによる京都御所での戦い。
※7 幕府直轄軍と動員された諸藩軍。
※8 小倉口、石州(せきしゅう)口、芸州口、大島口の4つの国境で争われたため、山口県では、四境(しきょう)戦争ともいう。
※9 町人・農民・浪士らも参加した諸隊の1つ。
※10 6月22日、遊撃隊の総督・毛利幾之進(もうり いくのしん)に交代。
※11 従軍した岩国の藤田葆(ふじた しげる)がまとめた「小瀬口戦争私記」に収録された「河瀬安四郎報告書」より。

参考文献
山口県編『山口県史 史料編 幕末維新4』2010
岩国市編『岩国市史 上』1970など

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