おもしろ山口学

城下町・岩国と幕末(前編)

 岩国が誇る名橋「錦帯橋」を、幕末、見物に訪れた松陰と篤姫を紹介します。

 江戸時代、初代岩国藩(※1)主・吉川広家(きっかわ ひろいえ)(※2)が築いた城下町・岩国。その岩国が誇る歴史遺産に、5連のアーチが美しい木造橋「錦帯橋(きんたいきょう)」があります。錦帯橋は1673(延宝元)年、吉川氏や上級武士が住む錦川の西側と、中級武士や商人が住む東側の地区を結ぶ橋(※3)として創建されたものです。
 幕末には、すでに橋のそばに見物客用の茶店もあり、街道の山陽道や港から外れた地にありながら、歴史に名を残した人々も錦帯橋を訪れており、広く知られていたことが分かります。
 そうした人物の1人に幕末の志士・吉田松陰(よしだ しょういん)(※4)がいます。松陰は1853(嘉永6)年2月、船で上京の途中、わざわざ上陸して錦帯橋を見に行き、またすぐ港に戻って船旅を続けています。その時の旅日記には、錦帯橋の近くにあった岩国藩の意見投入箱に着目し、その「掲示されている文がとても良い」と書いています。松陰は生涯、よく旅をし、「飛耳長目(ひじちょうもく)」(※5)を萩藩に進言した人でした。意見投入箱や掲示されている文に着目した錦帯橋見物は、そうした松陰らしい一面をしのばせてくれます。

断られても橋に押し掛けた篤姫

 くしくも同じ年の9月、将軍・徳川家定(とくがわ いえさだ)に嫁ぐため、鹿児島から江戸へ上る途中の篤姫(あつひめ)(※6)が錦帯橋を見物しています。その時のある一件が、市立博物館の岩国徴古館(ちょうこかん)が所蔵する岩国藩の記録(※7)に残されています。
 それを要約すると、篤姫は「今日、岩国領内を通行する際に、岩国城下へ回り道をして錦帯橋を見物したい」と岩国藩に使者を遣わしてきます。藩の役所は町奉行(※8)を通じて、「回り道をして橋を見物していただくことは構いませんが、橋は破損している所もあり、ご通行はお断りします。船で渡ってのご見物はできます」と答えます。それに対し、篤姫側からは「近年、主人(※9)が通行の節、お許しになっています。このたびも先例どおり、許可を出せませんか」と申し入れがあり、町奉行は藩と相談するため「少し時間をください」と使者に伝えたところ、使者は取りあえず船での見物を篤姫に伝えるため帰ります。ところが、その後、藩には次のような報告が届きます。「お姫様が橋に押し掛けられ、断ったのですが、通行されました」…と。
 船旅の途中、寄り道をしてでも見に行った松陰。橋の通行を断られ、それでも渡りたいと押し掛けた篤姫。幕末の動乱期にあっても、錦帯橋は見てみたい、渡ってみたいと2人の異なる好奇心を引き付けた魅力的な橋だったことを教えてくれます。


※1 当時一般的には岩国領と呼ばれ、公式に藩となったのは1868(明治元)年。
※2 毛利輝元(もうり てるもと)のいとこ。
※3 基本的に吉川氏と岩国の藩士専用で、町人などは通行不可。
※4 萩生まれ。多くの志士を育てた松下村塾(しょうかそんじゅく)の主宰者。
※5 「情報収集に努め、物事を鋭敏に観察する」という意味。
※6 鹿児島の今和泉(いまいずみ)領主の子。鹿児島藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)の子として育てられた。後、天璋院(てんしょういん)と名乗る。
※7 現在の議会にあたる御用所(ごようじょ)の日記である「御用所日記」。
※8 藩から派遣された町の政治の責任者。
※9 養父である島津斉彬のこと。

参考文献
岩国市編『岩国市史 上』1970
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』1979-97
山口県教育会編『吉田松陰全集9巻』1974など

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