おもしろ山口学

日本の近代化を支えた3人の長州生まれの実業家たち

第3回:鮎川義介

 日産コンツェルンの創始者として、日本の財界をリードした人物を紹介します。

 萩博物館では、4月10日(火曜日)まで、企画展「日本の近代を拓(ひら)いた萩の産業人脈-藤田伝三郎(ふじた でんざぶろう)とその時代-」を開催中です。その展示は、藤田(※1)、おいの久原房之助(くはら ふさのすけ)(※2)、久原の妻の兄の鮎川義介(あゆかわ よしすけ)と、長州生まれの人物が日本の財界をリードしていったことを教えてくれます。
 鮎川は1880(明治13)年に山口市で生まれました。父は旧萩藩士で、元武士の暮らしは苦しく、親に楽をしてもらうため、立身出世への思いが芽生えたと後に鮎川は語っています。鮎川は東京帝国大学(※3)を卒業後、独立自尊(※4)を目指し、そのスタートとして、学歴を隠して一職工として芝浦(しばうら)製作所(※5)に入社します。休日に幾多もの工場を見学する中で独創性や合理化の欠落を感じ、先進的な製造現場を学ぶため、渡米して働き、学んだ新しい技術を元に、北九州市で「戸畑(とばた)鋳物株式会社」(※6)を創業します。
 1928(昭和3)年には、苦境に陥った久原鉱業を久原から引き継ぎ、公開持株会社(※7)の「日本産業株式会社」に改組し、やがて日産自動車や日立製作所などを傘下に持つ巨大な「日産コンツェルン」(※8)へと発展させていきました。

「ダットサン」と日本初の自動車一貫生産

 鮎川と自動車との関係は、戸畑鋳物株式会社で自動車部品を製造したことに始まります。それより先、1914(大正3)年に国産自動車の先駆けとなる車が自動車メーカー・快進社で誕生し、開発協力者らの頭文字を取って「DAT(ダット)」と命名されていました。1931(昭和6)年には、DATの息子という意味で「DATSON(ダットソン)」と名付けた車が生まれます。鮎川は同年、その会社を戸畑鋳物株式会社の傘下に収め、「ソン」が「損」につながらないよう縁起を担ぎ、車名を「DATSUN(ダットサン)」に改め、その後、横浜に設立した日産自動車で日本初の自動車一貫生産を始め、日本の産業の発展に寄与しました。
 他人が行ない得ず、しかも「社会公益に役立つ方面を切り開いていこう」と人生を歩んだ鮎川。エンジニアへの道を勧めた大叔父の井上馨(いのうえ かおる)(※9)に感謝し続け、人づくりに熱心だった井上の志を継いで、井上育英会(※10)の創設に尽力しました。ふるさとも愛し、1965(昭和40)年の日本寮歌祭(※11)では、白線帽・羽織・はかま・げたばきという往時のいでたちで、母校の旧制山口高等学校(※12)の校歌や寮歌を歌い踊る数十人の中に、鮎川の姿がありました。そのとき満84歳。鮎川が亡くなったのは、その2年後のことでした。


※1 琵琶湖疏水(びわこそすい)などの土木工事のほか、多彩な事業を展開した萩出身の実業家。
※2 茨城県の日立(ひたち)鉱山の再開発など、多彩な事業を国内外で展開した政財界人。
※3 現在の東京大学。
※4 独立して、自己の人格・威厳を保つこと。
※5 現在の(株)東芝。
※6 現在の日立金属(株)。
※7 自社の株式を公開した持株会社。
※8 1937(昭和12)年には三井・三菱に次ぐ企業集団に成長。戦後、解体。
※9 山口出身。幕末の志士。初代外務大臣。
※10 学生に奨学金を貸与する財団法人。
※11 全国の旧制高等学校の寮歌などを歌った催し。
※12 現在の山口大学。

参考文献
日本経済新聞社編『私の履歴書24』1965
鮎川義介先生追想録編纂刊行会『鮎川義介先生追想録』1968など

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