おもしろ山口学

日本の近代化を支えた3人の長州生まれの実業家たち

第2回:久原房之助

 国内外で活躍し、工業都市・下松誕生のきっかけを作った人物を紹介します。

 萩博物館では、4月10日(火曜日)まで、企画展「日本の近代を拓(ひら)いた萩の産業人脈-藤田伝三郎(ふじた でんざぶろう)とその時代-」を開催中です。明治時代、財界のリーダーの一人として活躍した藤田伝三郎(※1)。そのおいの久原房之助(くはら ふさのすけ)も日本の財界を大正・昭和にかけてリードし、国内外や政界(※2)でも活躍したスケールの大きな人物でした。

 久原は萩で生まれ、叔父の伝三郎と父(※3)らが起こした「藤田組(※4)」に入社すると、銀の鉱床が尽きかけていた秋田県の小坂(こさか)鉱山を、銅山としてよみがえらせます。その後、藤田組から独立し、茨城県の赤沢(あかさわ)銅山を「日立(ひたち)鉱山」として再開発し、世界屈指の銅山に育て上げ、「久原鉱業」をはじめ、多彩な事業を国内外で展開しました。その過程で、日本に亡命中だった中国の孫文(そんぶん)(※5)と出会い、活動への支援も行っています。

久原の壮大な夢から生まれた鉄道車両製造のまち・下松

 山口県内では1917(大正6)年、現在の下松市(くだまつし)(※6)に、造船・製鉄などの工場を造るとともに、電車を走らせ、上下水道・劇場・公園などを整備し、18万人が居住できる新市街を造る世界有数の規模の「大工業都市建設計画」を立て、用地買収を進めます。

 しかし、当時、第一次世界大戦中で、アメリカが軍需物資となる鉄鋼の輸出を禁止したため、原材料の入手が困難となった久原は、大工業都市建設計画を断念せざるを得なくなり、「日本汽船笠戸(かさど)造船所」を造ったものの、数カ月で造船の中止を決断します。

 その後、造船所は、国内の鉄道車両の製造能力が低いことに着目した古山石之助(ふるやま いしのすけ)工場長により、蒸気機関車の製造へ転じ、さらに、久原の部下だった小平浪平(おだいら なみへい)が起業した「日立製作所」(※7)の傘下に入ります。

 他にも久原は、山口県へさまざまな形で貢献しました。1912(大正元)年に帰郷した際、地域の人々を招いて須佐と萩で大園遊会を催すとともに、萩で初めて自動車を走らせ、人々を驚かせます。また下松には、大工業都市建設計画に対する協力への感謝と断念への謝罪を込め、下松工業学校(※8)の設立費を県に寄付しています。

 久原が造船所として始めた工場は現在、新幹線など世界最先端の鉄道車両を造る「日立製作所笠戸事業所」に、そして下松は周南工業地帯の一翼を担う工業都市として発展しています。それらは思いがけず、久原の壮大な夢から生まれた結果だといえます。


※1 琵琶湖疏水(びわこそすい)などの土木工事のほか、多彩な事業を展開した萩出身の実業家。
※2 1928(昭和3)年、通信などを管轄する逓信(ていしん)大臣に就任。
※3 父は久原庄三郎(しょうざぶろう)。藤田伝三郎の兄だが、須佐の久原家へ養子に入ったため久原姓。
※4 土木建設業、鉱山業など多彩な事業を展開。現在のDOWAホールディングスの母体。
※5 中国の政治家・革命家。
※6 下松は藤田家の先祖が居住した地で、久原にとって縁故の地。
※7 日立鉱山の電気機械修理工場から創業。
※8 現在の県立下松工業高等学校。

参考文献
久原房之助翁伝記編纂会『久原房之助』1970
笠戸工場史編集室『日立製作所笠戸工場史』1975
下松市『下松市史』1989
古川薫『惑星が行く 久原房之助伝』2004など

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