第1回:藤田伝三郎
「琵琶湖疏水」工事などを手掛け、財界のリーダーとして活躍した人物を紹介します。
萩博物館では、4月10日(火曜日)まで、企画展「日本の近代を拓(ひら)いた萩の産業人脈-藤田伝三郎(ふじた でんざぶろう)とその時代-」を開催中です。その展示は、幕末以降、長州に生まれた人たちが実業界で活躍し、日本の近代化を脈々と支えたことを教えてくれます。
藤田伝三郎は1841(天保12)年、萩で酒造業を営む家に生まれました。幕末には、志士と交わり、高杉晋作(たかすぎ しんさく)(※1)に師事したといいます。
維新後、大阪に出て、当時輸入品だった軍靴の製造などを請け負った後、2人の兄、鹿太郎(しかたろう)・久原庄三郎(くはら しょうざぶろう)(※2)と土木建設業などを行う「藤田組」を設立します。当時は、明治政府が日本人技術者を育てて外国人技術者への依存から脱しようとしていた時代でした。藤田組は大津-京都間の鉄道の土木工事を請け負い、その区間には、当時日本一の長さを誇った「逢坂山(おうさかやま)トンネル」(※3)の難工事もありましたが、日本人だけで無事完成させます。
また、伝三郎は、やはり日本人だけの手による「琵琶湖疏水(びわこそすい)」(※4)工事や、日本初の大規模な干拓となった「児島(こじま)湾の干拓」(※5)も手掛け、秋田県の小坂(こさか)鉱山をはじめ全国各地の鉱山経営や、現在の多くの大企業や団体(※6)の設立に関わり、明治時代、財界のリーダーの1人として活躍しました。
伝三郎親子ゆかりの「藤田美術館」「椿山荘」
伝三郎と嫡子・平太郎(へいたいろう)は、当時増えつつあった古美術品の海外流出を防ごうと、仏教美術や茶道具などを収集したことでも知られます。大阪の本邸は1945(昭和20)年、戦災で焼失しましたが、美術品を収めた蔵は焼失を免れ、現在「藤田美術館」として、国宝「曜変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)」(※7)など貴重な日本の宝を守り続けています。
また現在、平太郎の箱根の別邸はホテル「箱根小涌園(はこねこわきえん)」、山県有朋(やまがた ありとも)(※8)邸を譲り受けた東京の別邸は結婚式場「椿山荘(ちんざんそう)」となっています。
伝三郎は鉱山経営などで困難な状況に陥るたび、非常に親しかった井上馨(いのうえ かおる)(※9)を通じ、旧萩藩主の毛利家によって支えられました。そうした状態にあっても教育機関などへの寄付を惜しまず、ふるさと萩へも多額の寄付を行い、萩では、それを教育・福祉に役立て、伝三郎の名はふるさとの多くの人々に親しまれていました。
写真:(上)逢坂山隧道(ずいどう)工事(『子爵井上勝君小伝』より)
(下)国の重要文化財 小坂鉱山事務所(秋田県小坂町提供)
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※1 萩出身。吉田松陰(よしだ しょういん)の門下生。
※2 庄三郎は須佐の久原家へ養子に入ったため久原姓。
※3 滋賀県と京都府の境にある山。
※4 滋賀県の琵琶湖の水を京都へ引いた長大な水路。難工事の末、1890(明治23)年に完成。
※5 岡山市にある湾を干拓した広大な農地。岡山市南区の地名「藤田」は、伝三郎のこの干拓に由来。
※6 現在のDOWAホールディングス、藤田観光、東洋紡、南海鉄道、大阪商工会議所など。
※7 中国で12-13世紀に作られた、黒い釉薬(ゆうやく)に斑紋が星のように浮かんだ美しい茶碗。
※8 萩出身。松陰の門下生。明治政府で活躍。椿山荘の名は山県の命名。当時の別邸は戦災で焼失。現在の椿山荘は戦後、復興されたもの。
※9 山口出身。幕末、藩主の小姓を務め、生涯、毛利家に近かった。明治時代、政財界で活躍。
参考文献
岩下清周『藤田翁言行録』1913
砂川幸雄『藤田伝三郎の雄渾なる生涯』1999など