おもしろ山口学

大内氏館と庭園(後編)

2005(平成17)年度に復元された「大内氏館跡枯山水(かれさんすい)庭園」を紹介します。

国指定史跡「大内氏館跡」の発掘調査では、室町時代の庭園の遺構が、これまでに少なくとも3つ確認されています。1つ目は史跡中央付近で発掘された庭園、2つ目は池泉(ちせん)庭園跡、3つ目が1997(平成9)年度に初めて発見された枯山水庭園跡です。

枯山水とは、水のある池や流れを造らず、石組を主体に白砂・コケ・植栽の刈り込みなどで自然の景観を象徴的に表わしたものです。平安時代には、広大な池泉庭園の一角に造られる表現の様式でしたが、室町時代には、枯山水だけで独立した庭が生まれました。

発掘調査の結果、大内氏館跡の枯山水庭園は、1500年代前半の大内義隆(おおうち よしたか)(※1)のころに造られたものではないかと推測されています。

焼け跡が残る庭石も発見され、それらは1500年代中ごろの火災に伴うもので、その火災により、枯山水庭園は廃絶したと考えられています。1500年代中ごろは大内氏滅亡期に当たります。義隆が館を追われた重臣らのクーデター(※2)、重臣らが当主として迎えた義長(よしなが)(※3)が毛利元就(もうり もとなり)(※4)に攻められて館を追われた事件など、大内氏滅亡期の事件のいずれかと枯山水庭園の火災との関連も考えられます。

枯山水庭園の全貌は不明ですが(※5)、2005(平成17)年度に復元され、室町時代、斬新な様式の庭園を取り入れた大内氏の進取的な気風をしのばせてくれます。

今年新たに第4の庭園が発見?

大内氏館の発掘調査は現在も行われており、4つ目の庭園となるかもしれない、立石(たていし)や石敷(いしじき)(※6)などからなる庭園状遺構の一部が今年、池泉庭園跡の北で見つかりました。室町時代はごみ捨て場だったのでは、と想定された場所だったため、庭園状遺構の発見は意外なことでした。池泉庭園あるいは枯山水庭園として造られたのかは検討中ですが、その庭園状遺構は、土の中で立石や石敷などがほぼそのまま残っており、貴重な遺構となっています。

庭園状遺構の近くでは、1400年代末以降に造られ、やはり大内氏滅亡のころに埋まった石組水路も今年見つかり、そこからは高級品の青磁の酒海壺(しゅかいこ)(※7)の破片が出土し、はかなく消えた大内氏の栄華を物語ります。

庭園は幾つあり、どんな建物がどこにあったのかなど、まだ謎が多い大内氏館跡。土の中に眠り続けた遺跡は何を語るのか。今後も続く発掘調査が楽しみです。


※1 父・義興(よしおき)とともに歴代で最も栄華を誇った。
※2 1551(天文20)年、陶隆房(すえ たかふさ)らのクーデターにより、義隆は現在の長門市で自刃。
※3 陶氏らが、大内氏と血縁関係にあった大友氏から擁立した当主。
※4 1555(弘治元)年、陶晴賢(はるかた。隆房から改名)と戦って勝利した武将。
※5 後に堀などが掘られ、失われた部分が多い。
※6 径10センチメートルほどの石が敷き詰められている。
※7 花弁などが全体に刻まれた、口の広い、肩の張った中国産の青磁のつぼ。日本では当時、床の間などの座敷飾りの品として珍重された。

参考文献
山口市教育委員会文化財保護課編「史跡大内氏館跡枯山水庭園」2005など

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