おもしろ山口学

大内氏館と庭園(前編)

今年復元された「大内氏館跡池泉(ちせん)庭園」を紹介します。

山口市にある、西国一の栄華を誇った大内氏の居館跡「大内氏館跡」。現在は大内義隆(おおうち よしたか)(※1)の菩提寺(ぼだいじ)「龍福寺(りゅうふくじ)」の地となっていますが、1978(昭和53)年から始まった発掘調査で、室町時代に造られた庭園の遺構がこれまでに少なくとも3つ確認されています。その1つが池泉庭園跡(※2)で、今年8月、「大内氏館跡池泉庭園」として復元されました。

中世の庭園は全国各地に現存しますが、後の改修や日々の手入れなどもあり、原形をとどめるものは多くありません。それに対し、大内氏館跡は大内氏の滅亡後、寺の境内としてタイムカプセルのように土の中に埋まったことが幸いし、発掘された庭園は中世当時の庭園の様式を伝える極めて貴重な存在となっています。

栄華を物語る大規模な池泉庭園

調査の結果、池泉庭園は1400年代終わりごろから1500年代初頭にかけて造られ、2度の改修後、大内氏が滅亡した1500年代中ごろに廃絶したと現時点では考えられています。池はヒョウタンに似た形をした南北約40メートル・東西約20メートル、中世大名の居館の池としては大規模で、中ほどには島があり、池の縁には石を並べた所があったことが分かりました。作庭に当たって館の敷地を約20メートル東に広げたことも分かり、しかも、水はけの良い地でありながら、池を掘って十分な水を引き入れてためる工事は、大変な労力を要したと推測されます。そうしたことから、池泉庭園は、それを造り上げた大内氏の権力の大きさを物語るものだといえます。

復元に当たっては、庭園の遺構の保存を優先し、遺構の上に土を盛ってかさ上げし、その上に分かった範囲内で整備することにとどめられました。また、池の北東の岸には、ソテツが植えられました。これは、室町幕府の政治顧問を務めた京都の僧が書いた日記(※3)に「大内の庭にソテツという草があり(中略)、もし将軍様のお庭に植えられるならば進上いたします、と興文首座(こうぶん しゅざ)(※4)は言った」とあることに基づくもので、その姿形や大きさも詳細に記していることから、ソテツは当時まだ珍しいものだったことがうかがえます。ソテツは南方の植物で、大内氏の財を築いた大陸や琉球などとの交易でもたらされたのかもしれません。池の南西には、広大な庭を眺めながら公的な儀式や宴(うたげ)などを行った建物があったと思われますが、残念ながら建物の遺構は発見されていません。

歴代で最も栄華を誇った義隆が重臣たちに館を追われて(※5)460年目の今年、大内氏館跡によみがえった庭は、往時への空想をかき立ててくれます。


※1 父・義興(よしおき)とともに歴代で最も栄華を誇った。
※2 大内氏館跡の南東部で1992-3(平成4-5)年度の調査により発見。
※3 相国寺鹿苑院蔭凉軒(しょうこくじ ろくおんいん いんりょうけん)の僧が書いた『蔭凉軒日録』1488(長享2)年9月16日条。
※4 在京して朝廷や幕府との交渉に当たった大内氏の外交僧。
※5 陶隆房(すえ たかふさ)らのクーデターにより、1551(天文20)年、現在の長門市の大寧寺(たいねいじ)で自刃。

参考文献
山口市教育委員会文化財保護課編「史跡大内氏館跡池泉庭園」2011
山口市教育委員会文化財保護課編『大内氏館跡XI』2010
山口県編『山口県史 史料編 中世1』
飛田範夫『日本庭園の植栽史』など

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