おもしろ山口学

大内氏とマツタケ

県文書館の資料から、室町時代の大名も好んだマツタケにまつわる話を紹介します。

「万葉集」に歌われるなど、昔から日本人に愛されてきたマツタケ。室町時代、山口を拠点に西国一の栄華を誇った大内(おおうち)氏もマツタケ狩りを楽しんだという文書(もんじょ)が、県文書館に収蔵されています。大内氏の私的な日常を記した文書はほとんど現存せず、その面からも非常に珍しい文書です。

その文書とは、1521(大永元)年旧暦9月、大内義興(よしおき)・義隆(よしたか)父子(※1)一行が現在の山口市小鯖(おさば)でマツタケ狩りを行った際、その行事を手配した宮内胤宗(みやうち たねむね)(※2)が書いた記録です。そこには、随行者として、問田(といだ)氏・野田氏・杉氏といった重臣や、同朋衆(どうぼうしゅう)(※3)、御走衆(おはしりしゅう)(※4)、酒奉行(さけぶぎょう)(※5)、京都から来ていた陰陽博士(おんみょうはかせ)(※6)と医師2人、能楽師の名前もあり、名前が分かるだけでも一行は50人に上ります。

胤宗の記録を要約すると、次のようなことが記されています。「御屋形(おやかた)様(※7)の義興様と義隆様は館を8時ごろ馬に乗って出発され、タカ狩りを楽しまれた後、10時ごろ松茸山(まつたけやま)に到着されました。私の案内でお供の皆さんはマツタケを200本余り採り集め、その後、私の屋敷で酒宴(しゅえん)を楽しまれ、御屋形様が帰館されたのは20時ごろでした。そして杉様を通じて、私は御屋形様から、お褒めの言葉と、六郎左衛門尉(ろくろうざえもんのじょう)という名前、太刀、酒杯を賜りました」。この記録からは、義興がマツタケ狩りに満足し、また、義興からの感謝を胤宗が名誉に思った様子がうかがえます。

戦に赴く前もマツタケの贈答を忘れなかった家臣

マツタケは贈答品としても好まれ、県文書館には、大内政弘(まさひろ)(※8)がマツタケを届けてくれた家臣の仁保(にほ)氏へ出した2通の礼状があります。中でも1通には、山口にいた政弘から出陣中の仁保氏に対し、「マツタケが再々届き、喜んでいる。出陣に当たって、留守中に忘れずに私に贈り届けるよう指示していたとのこと、一段とうれしい」と記され、生死を分ける戦を前にしても、こまやかな心遣いを忘れなかった仁保氏への、政弘の感謝の念が伝わってきます。

政弘の時代は、京都で応仁・文明の乱(※9)が続いた時代。続く義興のころも戦の絶えない時代でした。そんな時代でもマツタケ狩りを悠々と楽しんだ大名たち。喜ばれる贈り物を忘れなかった家臣。文書からは、先人の笑顔まで浮かんでくるようです。


※1 大内氏歴代で最も栄華を誇った。
※2 小鯖にある鰐鳴(わになき)八幡宮の神官の一族。
※3 将軍や大名のそばに仕えて芸能や茶事を務めた人たち。僧の姿をしていた。
※4 徒歩で随行して当主を警護したり、雑用に当たったりした役。
※5 当日の酒の手配をした役。
※6 天文・暦・占いなどの学問を教えた博士。
※7 特定の大名にしか許されなかった呼称。大内氏が将軍から高く評価されていたことが分かる。
※8 義興の父。応仁・文明の乱で、不利だった西軍に大軍を率いて味方し、戦況を一変させた。
※9 将軍家の跡継ぎ問題などを原因に、有力な諸大名が東西2軍に分かれて戦った。

参考文献
和田秀作「松茸と大内氏」やまぐち史談7 県文書館史料から(中国新聞連載)2005.5.17
「三浦家文書」(『大日本古文書 家わけ第14』1971)
「藤岡家文書」(『山口県史 史料編 中世4』2008)など

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